オシム監督
オシムの言葉子どもの頃からスポーツをしていたのだが、観る事に関してはほとんど興味がなく、テレビニュースでスポーツコーナーになればチャンネルを替え、スポーツ新聞はおろか新聞のスポーツ欄も読んだことがない。オリンピックやワールドカップの開催も私には何の意味もない。自分がやっていた競泳ですら、会場で競技役員なんぞをしていても、大会進行に興味はあってもアスリートたちへのまなざしには熱心さがなかったと思う。だが、オシム監督の病状は気になって仕方なく、ニュースのスポーツコーナーでチャンネルそのままの日が続いている。オシム監督を知ったのは、上記のような私であるからサッカー観戦からではない。ある映画を論じるブログで彼のことに触れていて興味を持った。そして推薦されていた「オシムの言葉(木村元彦著)」を読み始める(まだ途中)。旧ユーゴスラヴィア,サラエボ出身。あの内戦の時代を生き抜いた人。オシム語録というものがあるそうだが、そういったバックボーンを知るとその言葉の重みというものを感じる。意識回復の兆候との報道であるが、またフィールドに立つ日が早く来ることを願ってやまない。Wikiから一部引用~ユーゴスラビア紛争終結後もわだかまりの残る旧ユーゴ構成諸国家内各民族の間で、今なおどの民族からも尊敬を集め得る人物の一人であるといわれている。これは数々の困難を乗り越えてユーゴスラビア代表に栄光をもたらした功績によるものである。彼が代表監督に就任する直前のユーゴ代表は、チトーの逝去に伴う各民族のナショナリズムの勃興に並行するような形で、試合の開催場所によってチームの構成が大きく変わる有様だった。つまり、ベオグラードで試合をする際にはセルビア人中心の構成に、ザグレブで試合をする時はクロアチア人中心の構成にといった具合にである。こうした民族的な配慮を排除した上で、「必要ならば11人全員をコソボのアルバニア人で揃える」と言って憚らなかった。完成したチームはドラガン・ストイコビッチ、のちにスレチコ・カタネッツ、デヤン・サビチェビッチらがいた。1990年ワールドカップ当時、各民族のスターばかりを集めた選手起用を求めるメディアに対する当てつけとして、初戦ドイツ戦で敢えてその要求通りの起用で敗戦してみせ、次の試合では本来考えるチーム編成で勝利し[2]、最終的には、準々決勝でマラドーナを擁するアルゼンチン相手に1人欠きながら120分間無失点のドローの末、PK戦で敗れた。作り上げた最後のユーゴ代表は、1990年のワールドカップでは準々決勝で敗退したものの、2年後の欧州選手権では優勝候補の1つになるであろうという評価を得た。1991年にスロベニアとクロアチアが連邦を離脱した後も、欧州選手権出場に向けた努力は続けられた。チーム内にも各民族間の対立が持ち込まれ、チームの団結維持に多大な労力を必要とした連邦末期にあってもその姿勢は変わらなかったが、やがて国の解体に合わせてユーゴ代表も崩壊した。~引用終わりある映画とはこれあなたになら言える秘密のこと(DVD) ◆20%OFF!