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カテゴリ:なな猫のあれこれ読書日記
或る日。――
足音をしのばせて私は玄関から自分の居間にはいり、いそいで 洋服をきかへると父の寝てゐる部屋の襖をあけました。うすぐら いスタンドのあかりを枕許によせつけて、父はそこで喘いでをり ます。持病の喘息が、今日のやうな、じめじめした日には必ずお こるのです。秋になつたといふのに、今年はからりと晴れた日は まだ一日もなく、なんだか、あついやうな、そして肌寒い毎日で ありました。 父は黙つて私の顔をみつめてをります。私は父のその目付きを 幾度もうけて馴れてをりますものの、やはりそのたびに一応は、 恐れ入る、といふ気持になって、丁寧に頭をさげます。そして、 ぎこちなく後ずさりをして部屋を出ました。 つめたい御飯がお櫃の片側にほんの一かたまり。それに大根の 煮たのが、もう赤茶けてしるけもなくお皿にのってをります。 土びんには、これもまたつめたい川柳のお茶がのこりすくなくは いってをります。私はいそいでお茶漬けにして食事を済ませまし た。胃のなかに、かなしいほどつめたいものが大いそぎでおちこ んだといふ感じがします。 『落ちてゆく世界』所収 これは、1952年に阪急・六甲駅で鉄道自殺を遂げた久坂葉子の小説です。 これまでも、この「なな猫通信」で久坂葉子のことを書いたことがありますが ときどきわたしの中で、この久坂葉子は マイブームとして訪れるのです。 でも、全集まで古書で買って読んでみたものの あまりに若くして亡くなった彼女の残したものは いわゆる若書きというのですか、よいと思えないものも多い。 それなのに、なぜこんなに人を惹きつけるのでしょう。 元華族の家柄、川崎造船創立者の家の令嬢、 そんな要素もあるにはあるのですが それだけですべての元華族の書いたものが そんなに後を引くわけでもない。 やはり彼女には、なにかあるのです。 折しも河出書房新社から、早川茉莉氏の編になる 『エッセンス・オブ・久坂葉子』が出版されました。 それを読んで、はじめて久坂葉子を知る若い人が、また出るでしょう。 そしてわたしのように なじかはしらねど、彼女に魅入られていく人間が。。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008年05月17日 12時17分38秒
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