思いがけぬ戸籍 1
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初めて見る祖母の若かりし頃の戸籍が手元にあることに、数年の間気
がつかなったものだから、気がついた時は本当に驚いた。
祖母の生家があった場所は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、豪族の
根拠地として栄えたところで、今でも城下町の風情が残る観光地。伯
母の話によると、生家は地元ではなかなかの名家だったそうな。
ところが戸籍によると、祖母が7歳の時に実父が死亡していた。私はてっきり祖母だけが一人で
養子に出されたんだろうと思っていたが、そうではなかったのである。
実父の死から6年後の祖母が13歳の年に、未亡人だった実母が再婚したため、祖母はその家の養子
になったのだった。つまり、再婚した母親の連れ子だった。そして祖母がその家から嫁いだのも、
全く無理からぬことだった。「連れ子」は祖母一人ではなかったのだ。祖母には3歳年上の姉ゆき
さん(仮名)が存在し、その姉と共に実母の再婚先の養子となっていたのだから。
さらに、先ほど発見した養子になった先の戸籍によると、祖母の実母の再婚相手には、亡くなっ
た先妻との間に6人の子どもが生まれたものの、そのうちの4人が幼くして亡くなっていた。そし
て祖母の実母はなんと祖母が嫁いだ4年後に、23歳年の離れた父親違いの祖母の妹を、45歳で出
産している。その子には朗らかに育ってほしいとか、笑顔の絶えない人生を送ってほしいとか、
そんな親の願いが込められたんであろう命名だった。
一方、私が生まれるずっと昔に亡くなっていた祖父の戸籍には、とても不可解な記載がある。祖
母との婚姻の2年前に、みねさん(仮名)という女性との婚姻の届け出がある。そこまではさし
てどうということはないのだが、みねさんは「婚姻の翌日に死亡している」のだった。役場への
届け出は数日違いになっているものの、あまりに不可解過ぎるではないか。実際にはどうなのか
は知らないが、婚姻と死亡が同じ日では受理できないので、一日ずらしたの?いや、わからない。
死因は聞き忘れてしまったのだが、伯母の話でみねさんの詳細が、少しだけわかった。みねさん
は4歳年上の、祖母の従姉だったんだそうな。つまり、二人の母親同士が姉妹だった。二人は小
さい頃からとても仲が良かったものだから、祖母は従姉の(未入籍だが)嫁ぎ先へもよく遊びに
来ていたんだそうだ。ところがみねさんは21歳で亡くなってしまい、その2年後に19歳の私の祖
母がみねの夫の後添いとなった。祖父は祖母より10歳年上。
なので実家の仏壇には、祖母の従姉のみねさんの位牌もあったのだと伯母。祖母が後妻にならな
ければ、従姉の位牌を自分が供養するなど、あまりないことだろう。思えば二人、いや祖父を含
めて三人の遺骨は今、同じ墓に入っているのだなぁ。
仲の良かった従姉の死と、自分がその夫の後添いになること。その時の祖母の胸の内は察するし
かないけれど、祖母にどれほどの意思の決定権があったんだろうと思う時代の、田舎のことだ。
養子となった先の家の負担にならないように、考えてもいただろう。実母からそう促されていた
かもしれない。祖父との入籍の時、祖母はすでに約妊娠8カ月。みねさんの時と同じくどんな理
由なのか知らないが、なぜもっと早く入籍してやれなかったのだろう。
昔は十代で嫁ぐのは珍しくなかったようだが、現代ではちょっと簡単には考えにくいシチュエー
ション。祖母のことだけでも、現代に生きる私にとって祖父はろくな男じゃない認定だったが、
みねさんのことで更に「なんだコイツは…」である。私が祖父を嫌う理由は、それだけでないこ
とは以前少し記事にしているが、その後知った事実もあるので覚えていたら後述しよう。
ああ…なんてことだ…。
祖母が婚姻する4年前、姉のゆきさんが18歳で男児を出産してる。届け出はゆきさん自身になって
いて、ゆきさんは未婚。養父の孫として記載されているが、父親の欄は空白。いったい何があった
んだろう。誰の子どもなんだろう…。
21世紀の今でさえも色濃く残る男尊女卑。当時の家長制度を思うと、あれこれと妄想が湧いてき
てしまうのだが、子どもの父親は婚姻が許される相手、あるいは婚姻を望む相手ではなかったの
であろうことだけが、はっきり解りはしまいか。何か、この事実だけで私の大伯母の人生もまた、
平坦でなかったことが想像でき、なんともやるせないのだった。
思いがけぬ戸籍 3
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