カテゴリ:サユリ
どれ程幸せだろうとも。いや、その幸せが大きいほど、それを失った時のことを考えるからだろうか。
恋人同士はお互いに、より強い安心を求めるようになる。 たぶん、だからだろうと思うけれども、それでも僕にはどうしても好きになれない言葉がある。「わたしのどこが好き?」そう聞かれて明確な答えが出せるほど、僕は冷静な恋をしていなかったし、甘い言葉を囁いて、それで相手を安心させられるほど恋に慣れているわけでもない。 サユリが、そう僕に尋ねる度に曖昧な笑顔と言葉でかわしてきた。僕に向ける、無防備すぎるほどの笑顔だとか、虫がものすごく苦手で、蟻でさえ怖がって僕にしがみついてくるところ、得意料理だからって、3日連続食べさせられたカレーライスも、たぶん、サユリにつながるたくさんのことが、僕にとって好ましいのだから。 端的に「どこが」と言うのは、はばかれる気がしては「全部、好きやな」そんな言葉をサユリに言い、その度に彼女は不満げな顔をした。彼女は、おそらく安心をしたかったのかも知れないし、幸せをかみ締めたかったのかも知れない。そう思っては、僕は笑うのだけど、やっぱりどこかその質問は好きではない。二人が「恋人」って関係になって、ひと月が経って、僕とサユリは小さな居酒屋で乾杯をした。 壁も天井も白い小さな小さな居酒屋で、大きな窓のすぐそばに座り、窓の下にある小さな池に泳ぐ魚をはしゃぎながらサユリが見ている。小さな池はライトアップされていて、水面に反射した光がゆらゆらとサユリの顔に触れて、それがとても良かった。よほどその店が嬉しかったのか、飲めないはずの焼酎までのんで、店を出た時には、サユリはかなり酔って僕にしがみつきながら歩いて、僕は苦笑いをしながらタクシーを停めた。 サユリの家に着いた僕は、コップの水を飲ませて、ソファに座らせたサユリの隣に座った。 「ねぇ」 まだ、お酒が回っている目でサユリが僕を見つめてくる。 「わたしの、どこが、すき?」 またか。 酔っ払ってるサユリを相手するのに少し疲れていた僕は、さっさと寝かせようと思っていたから、 「ぜんぶ、やで」 そう答えてサユリをベッドに連れて行こうとした。サユリが立ち上がろうとした僕の腕を掴んで、もう一度ソファに座らせようとする。 「なに?」 さっきまでと変わって、少し沈痛な面持ちをしたサユリの顔に気付き、腰を下ろす。 「ぜんぶ?」 サユリが僕を、じ、っと見ながら問い詰めるような目で見てくる。少しだけ苦しい気がして、それでも 「ああ、ぜんぶ」 そう、答える。 サユリが左の淡いピンク色のセーターの袖をゆっくりめくって、 「これでも?」 その言葉は、どこか遠くから聞こえてくるようだった。僕はサユリの白くて、とても細い左手首から、目を離すことが出来なかった。とても、とても白い手首には、目立ちすぎるほどの濃いピンクで何本も横向きに傷が入っていた。まだ新しいものも、幾らか時間が経ったものもあって、それぞれが幾重にも重なり合って、白い手首の上に不規則に並んでいる。 「これでも、ぜんぶ、すき?」 サユリの声で僕は我に返り、彼女の目を見た。不安、哀しみ、いやもっと。たくさんの感情が混ざった涙がたまった目を。 「ああ、ぜんぶ」 同じ言葉を繰り返し、傷の痕にそっと舌を這わせた。それを、僕は、美しいとさえ思った。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.02.27 13:26:04
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