「子育て支援は親支援」
このブログでも何度も記してきたような気がするのですが、
あらためてそうだなと痛感しています。
一人目の息子が生まれて23年経ちました。
妊娠して出産し、親になったとたん、
寝る暇もない休む暇もない毎日が始まりました。
もともと自分が独身時代に赤ちゃんに触れる機会がなかったというのもあると思うのですが、
生まれてすぐの0歳児がいったいどういう状態なのか、
産後の人の体がどうなって、生活自体がどうなるのか
思えば何も知らずに、「母親教室」のようなもので沐浴やら、1カ月の生活についてやら、
は習ったりもしましたが、一体どうなっていくのか分からない状態でした。
そして、ずっとお世話が必要な人がいる生活。
2人目の子が生まれ、離乳食を食べさせたり遊びに連れだしたり
とにかくそういうことに追われた毎日だったと思います。
***
誰かの世話をするということは、世話をする側の人の余裕は必須だと思っています。
ただでさえ心身ともに忙しく、
休む間もない状態。
そういう人に対して、手助けすることこそあれ、
「こうでなくてはならない」
「こういうところがダメだ」
などという言葉かけが必要なのかどうか?
世間ではとかく「母親を教育する」というようなことを口にする人がいたりしますが
じゃあ
父親は教育しなくていいのかと思ったり
そもそも、子どもの世話をするのが母親だという前提で
その母親を「教育する」ということなのか。
父親も親だし
むしろ、日頃子どもとかかわっていないとしたら
余計に子どもや子育てのことを知ろうわけがないだろうにとも。
***
世間の風潮というのはとても重要だと思います。
とかく、何かごとは「母親の自己責任」「母親が甘えている」
というような空気感の中で
ただでさえ
日々、子どもとあわただしく子育てしている人にとっては
子どものことは自分の責任・・・と抱え込みがち。
そうじゃなくて、
困ったらここで「助けを求めるの普通だから」ね。という空気。
逆に言うと
「助けを求めてはいけない」と誰も言ってないとはいえど
ヘルプを出せない人が多い、という現実は
世間が寄ってたかって「助けを求めてはいけない」と言っているのと同じ。
空気は誰が作るのか。
***
現在、当たり前、になっていることでも
過去の何十年何百年の人々が積み重ねてきたこともあるでしょう。
そういう意味で、
こんなことは繰り返したくない
と思った人が、次へ持ち越さない。
次にそこを通る人は「ああ、こういう知恵があって助かった」と思ってほしい。
まして、
子育ては、子どものことは
人々の生活の中での基盤であり、
国を支える基礎であり
すべての源でもあるということ。
そこを、
自己責任
我慢が足りない
昔の人は苦労した
そんな言葉で締め付け、息苦しくする意味があるのか。
***
この世に生まれた人で、邪悪な人は一人もいない。
愛される存在。
本当にかわいい。
親だってそう思っている。
だけど、
いろいろな環境下にさらされることもある。
せめて
生まれ出たところで待っている人たちが、
子どもたちのために尽力する気持ちで
迎える。
大人同士のどうでもいい都合なんておいといて
小さい人の幸せを第一にする。
そんな風であったらと願わずにいられない。
自分の、少なくともこのブログを記し始めてからは
そんな気持ちで生きてきました。
自分は、そういう意味では世の中の仕組みに対して
市民活動をしてきた立場の人間として、結果が残せていないのではないかという
そんな気持ちとともに、近年は生きています。
子育てが困難に感じる理由はさまざまだと思うけれど
そう感じる人がいたなら、その人が悪いわけではないとおもう。
子どもがかわいい。大切。
そう思い続けられるには、多くの人の力が必要でもあると思います。
しあわせな親子、で居続けられるためにできることはなんでしょうか。