田原坂まで
田原坂田原坂は長さ1.5km、標高差60mのゆるやかな坂。南下して熊本城を目指す官軍小倉連隊とこれを阻止せんとする薩軍が、明治10年(1877年)3月4日から17昼夜、一進一退の攻防を繰り返し1万人余の戦死者を出した、西南の役最大の激戦地です。 西南戦争とは、1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。西南役(せいなんのえき)、丁丑の乱、十年戦争(鹿児島弁では「じねんのゆっさ」)、私学校戦争とも呼ばれ、明治初期の一連の士族反乱のうち最大規模のもの。現在日本最後の内戦となっている。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%9D%82 実は ひめゆりの塔と並び、 日本最大の 心霊スポットでもある。 「抜刀隊」に進んで志願したのは会津士族の警察官だった。「戊辰の仇!」と叫び薩摩陣地に突撃する彼らに、薩摩軍は遂に田原坂を明け渡す。復讐・・・報復・・・ああ、どこまでもいつまでも人はこれを引きずって歩いていくのか・・。次は世界大戦で・・最前線・特攻隊に送られていくのはなぜか会津の者が多かったとか聞いた事があるよ。。。。。。。。争いはいつも悲しい。そしてそこにはなぜか悪者はいない。自分こそが正しいと信じて戦う国と人がいるばかりなり。 雨は降る降る 人馬は濡れる越すに越されぬ 田原坂 右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱馬上ゆたかな 美少年 山に屍 川に血流る肥薩の天地 秋さびし 田原坂なら 昔が恋し男同志の 夢の跡 春は桜よ 秋なら紅葉夢も田原の 草枕 夢を褥(しとね)に 夢やいづこ明けのみ空に 日の御旗 美少年の像。15歳の少年も多数戦死。砲弾跡地。 そんな歴史上の恐ろしい事件のあった場所とはまったく知らずにツーリングなどでよく立ち寄ってたが・・行くと、ものすごい頭痛に襲われていたものである。何度も行ってるが今回、初めて頭痛がしなかったばかりか、足取りも軽く行けた。西郷どんの死んだところは城山。ここはだからそんな有名な場所だとは思ってなかった当時のおちゃらけ闇天認識。 闇天の秘密(闇天、憑かれる時は霊に足だけ貸す事にしておるワシが歩いてるわけでは無いから、足も痛くならないしなぜか山とかにも登る事ができる本当の理由じゃよ。あの方たちも行きたいところにいけるのであの世で交わしたGive-and-takeの密約。四国お遍路も 実はそうやって回ったのだ。ワシの足ではそう長い時間は歩けんからの~) まさかこんな山の中に10000人以上の慰霊碑があるとは史実を知らない人は気がつかないだろう・・。 何やらこの日はさわやかな気を感じた。 完 西南戦争が最終局面に入った9月19日、西郷軍では一部の将士の相談のもと、山野田・河野主一郎が西郷の救命のためであることを西郷・桐野に隠し、挙兵の意を説くためと称して、軍使となって西郷の縁戚でもある参軍川村純義海軍中将のもとに出向き、捕らえられた。22日、西郷は「城山決死の激」を出し決死の意を告知した。今般、河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に遣はし候儀、全く味方の決死を知らしめ、且つ義挙の趣意を以て、大義名分を貫徹し、法庭に於て斃れ候賦(つもり)に候間、一統安堵致し、此城を枕にして決戦可致候に付、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様、覚悟肝要に可有之候也。 翌23日、軍使山野田一輔が持ち帰った参軍川村純義からの降伏の勧めを無視し、参軍山県からの西郷宛の自決を勧める書状にも西郷は返事をしなかった。9月24日午前4時、官軍砲台からの3発の砲声を合図に官軍の総攻撃が始まった。このとき西郷・桐野・桂久武・村田新八・池上・別府晋介・辺見十郎太ら将士40余名は西郷が籠もっていた洞窟の前に整列し、岩崎口に進撃した。進撃に際して国分寿介・小倉壮九郎が剣に伏して自刃した。途中、桂久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は、負傷して駕籠に乗っていた別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここでよかろう」と言い、将士が跪いて見守る中、跪座し襟を正し、遙かに東方を拝礼した。遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫ぶや、西郷を介錯した。その後別府晋介はその場で切腹した。西郷の切腹を見守っていた桐野・村田新八・池上・辺見・山野田・岩本平八郎らは再び岩崎口に突撃し、敵弾に斃れ、自刃し、或いは私学校近くの一塁に籠もって戦死した。午前9時頃、銃声は止んだ。戦死を肯(がえ)んぜず、挙兵の意を法廷で主張すべきと考えていた別府九郎・野村忍介・神宮司助左衛門らは熊本鎮台の部隊に、坂田諸潔は第四旅団の部隊にそれぞれ降伏した。ただ降伏も戦死もしないと口にしていた中島だけは今以て行方が知れない(「鹿児島籠城記」には岩崎谷で戦死したという目撃談が残っている。これが正しいようだ)。西南戦争による官軍死者は6,403人、西郷軍死者は6,765人に及んだ。この戦争では多数の負傷者を救護するために博愛社が活躍した。