苦楽を分けないで
この前の『古武術からの発想』(甲野善紀著)にこういうことが書いてありました。少々長いですが引用します。 とにかく子供のときに、「遊びは遊び、勉強は勉強でケジメをつけよう」なんてつまらないことを言うから、勉強が苦役になってしまうのだと思います。 体育をやり音楽をやり、そのなかで生活に密着した算数や社会を教えてゆけば、「僕は算数が苦手だ」という子もずっと減ると思いますし、体育を通して楽しさや苦しさを体感すれば人への思いやりが芽生え、哲学や倫理の基礎となるものの見方、考え方も養われると思います。 子供に苦手意識を植えつけてしまうというのは、早くから専門分化させてしまうからで、全体のなかで他との関連性をもたせ“たとえ”を数多く駆使して教えれば、今よりもずっと子供たちは積極的に喜んで学ぶようになると思います。 シュタイナー教育では、踊りと詩と音楽と算数を混ぜ合わせたようなオイリュトミーという不思議な科目がありますが、↑こういう考えを読むと、なるほどなあと思いますね。 良い・悪いもそうですが、僕らは何かにつけ苦と楽を分けてしまう傾向にあるようです。 家庭生活は楽、会社生活は苦(逆もあり!)、ママさんテニスは楽・家事は苦、DINKSは楽・子育ては苦、フリーターは楽・正社員は苦、○○さんとつのきあうのは楽・××さんとは苦、おもちゃを広げるのは楽・片付けるのは苦、時間とお金がたくさんあるのは楽・少ないのは苦・・・・例を挙げればそれこそ無数にあるでしょう。僕らは特に意識はしなくとも、一瞬一瞬そうやって、苦と楽を判断しながら日々過ごしてると思いませんか? ぜーんぶ楽なことばっかりにならないかなと思いつつも、そうは問屋が卸さないのが人生さ♪などとうそぶいて、苦の多さにグチをこぼしてるのが、我らが庶民の姿です。(それはそれで人間くさくって僕は好きですが、、、笑) では、苦はどこから来るのかと考えたら、苦と楽を分けた時点で苦が発生しているというのがわかりますか? つまり苦と楽を分けているうちは、永久に「楽100%・苦0%」という状態はやってきません。 しかも、楽を味わってるときは、そのうち苦がやってくるんじゃないかと不安におびえてるし、苦を味わってるときは、なんとかそれから逃れようとして、実は苦そのものを味わっていません。これはとても勿体無いことです。 そこで、苦と楽を分けずに目の前の出来事を素直に受け止めてみてはと思うのです。 例えば「手間がかかる」ということと「それは苦である」ということは別の次元の話なんです。事実と評価(印象)といってもいいでしょう。 「手間がかかるなあ」という事実の確認だけでとどめておいて、それが苦か楽かという評価を保留するんです。そうすることで、「○○は苦である」という自分の思い込みやこびりついた印象に支配されるのをある程度防ぐことができます。 そしてその目で、あらためて目の前の現実を見たときに、今までは苦とばかり思ってたのに実はこんな面白さがあったなんて、という発見がひとつでもあればしめたもんです。 持っていてもちっとも楽しくない印象は、なにかにつけさっさと捨てたほうが人生楽しくなります。僕らは、印象の集大成を現実だと思ってるわけですから。