密教のこれから
レヴィ=ストロースは「(学問には)還元的な方法か構造的な方法の二通りしかない」と述べております。本当にその二通りしかないのかは知りませんが、この二つの特徴を述べてみますと、還元的な方法は「主従」「甲乙」「超越/内在」の関係なんです。不動の根源を置いて論理を説明する方式です。だから一神教の論理もそれなんだと思います。構造的な論理は空の思想と似通っていると思います。絶対的な強者はいない。「関係性で成り立っている」のです。これは仏教の論理ですね。ただ唯識は識に「還元させる」考え方ですから異なります。しかしながら唯識は迷いの境地なのです。還元から脱却して構造によって最終的には説明されるべきものだと考えます。そして密教も構造的なものだと考えます。それは普遍の領域に至るものだからです。そうですね。還元と構造の対立は、「根源性/普遍性」の対立と言い換えた方が良いのかな?「真理は根源に有る」と考えるか、「真理は構造に依って異なる」と考えるかです。構造は「共時的」です。時系列は関係ない。関係性が重要。ならば還元は「通時的」なものでしょうか。その可能性はあります。分かりませんが。しかし歴史というものは還元で考えるものでしょうから。一神教では歴史を語りますね。天地創造やらキリストの誕生、贖罪、復活などなど。けれど仏教は(インド人は)歴史を気にしない。普遍的時間は概念として気にはしますが通時的歴史的時間は気にしない。お釈迦様がいつ生まれたのかもさして重要じゃない。無始無終の宇宙に生きてるだけ。大日如来は宇宙そのものでもあります。そして共時的な存在のはずです。けれども「真言八祖」の概念は歴史の思想ですので通時的なものですね。「法身(大日如来)は今ここに居る」「ここで説法されている」という思想と「大日如来からの密教継承」は対立する概念ともいえます。そして大日如来は法身なのか報身なのかという議論にもなるでしょう。その辺の整理が必要ですね。そしてチベット仏教も仏教の発展と共に儀礼儀式が追加されました。ここから更に密教が発展するならば更に儀礼儀式が追加されてゆくでしょう。果たしてそれは密教なのか。密教は完成するのかという議論になると思います。密教は仏教の最終到達点として正解なのでしょうか。あるいは密教は仏教の全体像(構造)を捉え切れているのかどうか、という議論になるのでしょうね。