……かたちをなしてゆく。
昨年のこと。 クリスマスがもうじきやってくるというころ、アメリカのクリスマスについて書かれたエッセイ〈CHRISTMAS TIME〉(※1)を読んだ。……かるく読んだ、と書いたのは偽りで、辞書をひきひき、額に汗して訳したのだった。 12月に入ると買いものリストをつくったり、シュトーレン(※2)をいくつか焼いて冷凍したり、クリスマスツリーを飾ったりする様子がいきいきと綴られている。 そうして、この一節に出合った。
Day by Day, the holiday takes shape and form. 日ごとクリスマスは、目に見えるかたちになってゆく。
この日以来、「take shape and form」(かたちをなしてゆく。 目に見えるかたちになる)という成句が、わたしのなかに棲みついてしまった。ふとしたときに、「take shape and form」とつぶやきつぶやく。 エッセイに描かれた準備の過程のよろこびが、こころからはなれない。 目に見えるかたちというのは、云ってみれば「結果」である。この場合はだから、クリスマスという結果に向かっていろいろの準備をし、心づもりをし、働くというわけだ。けれどこういう云い方もできはしないか。いろいろの準備が、心づもりが、働きの連なりが、あるなりゆきに到達するのだと。到達した地点を、クリスマスと呼ぶのだ、と。
考えてみると、 人生は過程の連続だ。 わたしたちは、それを忘れかけている。エレベータに乗りこんで一気に建物の高層階に上ったり。超特急の旅をしたり。ものを注文して翌日受けとったり。そういうことに慣れるうち、いつしか、あらゆる過程が抜け落ちてしまったようだ。結果ばかりを追って。大急ぎの結果をほしがるようになって。 過程の値打ちを思わないなら、人生などなくていいことになりはしないか。はじまり(生)と結果(死)があれば、それで……。
たとえば、こうして原稿を書くのでも、3、40分で1本(原稿用紙6枚ほどだろうか)書いてしまえることがあるかと思うと、1日じゅう机の前に坐っていても、1行も書けないこともある。すらすらいく日、それはうれしい。早く仕上がって幸運だったなんかと、考えはする。けれども、そういう日ばかりではまったくもってつまらない。すらすらの日も、てんでだめな日もあって、わたしは仕事をするうれしさを感じられる。それはわたしが、幸運にも、ひと足ひと足の過程の値打ちを知っているからだ。この幸運は、原稿1本が3、40分で書けてしまったときの幸運などとは、およそ異なる種類のものだ。 それにだいいち、てんでだめだった末の「できあがりもの」の、いとおしさといったら。
日日のくり返しのなかで生きるわたしたちが、ひと足ひと足のことが生きるよろこびに深く結びついているのを知らないなんてことがあったなら、それはとんでもない話だ。「take shape and form」(かたちをなしてゆく。 目に見えるかたちになる) かたち、目に見えるかたちは、ひと足ひと足の先にそっと置かれるもの。
※1〈CHRISTMAS TIME〉 アメリカのフードライターの第一人者であるマリオン・カニンガムによるエッセイ。『Christmas Memories with Recipes』 (25人のエッセイとレシピが収録/©1988 by Book-of-the-Month Club,Inc)に収められた1篇。
※2 シュトーレン(独/stollen) ドイツの菓子。生地にドライフルーツやナッツを、バタを練りこんだパンで、かなり重く、日持ちがする。欧米で、クリスマスを待つひと月のあいだ、これを薄く切って一切れずる食べる習慣ができている。
目に見える……ということから、ふと思いついて、こんなのを撮ってみました。――写真左から・カーテンレールに、何かを吊るすとき用いる木製フック。・「いちご」の毛繕いブラシ。・蠅たたき。・ミニモップ(これに古タイツをかぶせて使う)。・緊急時の殺虫剤(できるだけ使わない誓いのもとに)。これらが、目に見えないところ(けれども、すぐとり出せる)に置いてあります。さて、それはどこでしょうか……。
こたえは、テレビのうしろです。フック(粘着)で、ぶら下げてあります。分厚いアナログテレビなので、ぶら下げるのに、とても具合がいいのです。「いちご」は、ことしに入って、よくテレビを見るようになりました。このときは、画面に珍鳥が映っていました。(さて。あまり大きな声では云えませんが、さいごまで「アナログ」でいこうか、と考えています。切り換わったときどうなるか、見てみたくて。仕様もないことばかり考えて……)