テーマ:本のある暮らし(3317)
カテゴリ:読書
舞台は商人の町・大坂天満。 仇討ちで父を目の前で亡くし、あわや自分も討たれるかというところを、偶然居合わせた寒天問屋・井川屋の主人・和助によって銀二貫と引き換えに救われた松吉。 生きるために武士の身分を捨てて井川屋の丁稚となった松吉だが、商人の道を歩むことに心が揺れていた。 大火で焼けた天満宮再建のためにかき集めた銀二貫で松吉を救った和助や、信心深いが故に松吉に辛くあたる番頭の善次郎から、商人としての厳しい修行と躾を受ける。 そして、井川屋の暖簾をめぐる数々の事件を乗り越え、松吉は商人として成長していく。 得意先の料理屋の娘・真帆との淡い恋あり、涙あり笑いありのなにわ商人の人情劇。 ★■べか車■ 「ベカ車」の名称が現われるのは、安永年間である。 長さは2間ないし6、7尺で、幅は3尺余であり、大八車より狭かったが、これは大坂の道路の幅員が狭かったからである。 前方で1、2本の綱を2、3人が引き、後方で1、2人が撞木を押し、これを「楫」といって進退を掌った。 堅牢であったから、木石などの重量物を運搬するのに用いられた。 安永3年(1774年)9月、ベカ車の橋上通過が令をもって禁止された。 橋梁を破損させるというのが理由であった。 ベカ車が普及したため、上荷船、茶船への影響は決して小さくなく、寛政3年(1991年)に彼らの請願によって制限令が発せられ、その後もしばしばきびしい取締が行なわれたが、その効はなく、広く用いられた。 *本の中に「べか車」という言葉がよく使われていた。 「井川屋」では寒天を京都・伏見で仕入れていた。 その歴史は京都・伏見が発祥の地であり約400年と言われています。 1658年江戸時代初期、徳川4代目将軍家綱公の時代の冬の日、薩摩藩主の島津候が参勤交代の途中に山城の 国伏見の御駕籠町(現在の京都市伏見区)にある美濃屋太郎左衛門が営む旅館「美濃屋」に宿泊したことから 寒天の歴史は始まります。 「銀二貫」では美濃志摩屋という名前で出てくる。 ★伏見の取引先が火事になり伏見の「美濃志摩屋」で働いていた職人が大坂の高槻で寒天を作ることになる。 半平の功績をたたえて大正3年(1914)に建てられた石碑が、聞力寺(宮之川原元町)にあります。 高槻の山間部で、寒天づくりがこれほどまでに盛んになったのには理由があります。 その1つに、製造に適した冬の寒さがあげられます。 2つめは、テングサを煮溶かすのに必要な薪や炭が豊富だったことです。 3つめには、原料の入手や製品の出荷のために、淀川の河港・前島と原の間が「京坂越え」と呼ばれる山道で結ばれていたことで、淀川の水運が利用できたことです ★夜船 江戸時代に淀川の伏見と大坂の間を上下した三十国船には 夜間の船があったという。 ★伊豆方面から仕入れることになった取引先は 下田から紀伊半島をまわって大坂に入る廻船を使う。 廻船(かいせん・回船)とは、港から港へ旅客や貨物を運んで回る船のこと。 中世以後に発達し、江戸時代には菱垣廻船・樽廻船のほか、西廻り航路(北前船)・東廻り航路、さらに北国廻船・尾州廻船などの浦廻船が成立して船による輸送網が発達した。 ★牡蠣船が幾艘も、橋脚に繋がれて漂っている。 安芸の国からの牡蠣船の到来は秋から冬にかけての上方の風物詩であった。 「みをつくし料理帖」でも澪が幼い頃「天満一兆庵」の息子が幼い澪を連れて行くという思い出シーンがある。 大坂の天満にある寒天商という設定。 天満には乾物屋が多かったという。 この灯篭も天満にあり、乾物商が寄進している。 このように江戸時代の暮らしや寒天に関することがいっぱい出てくる。 本の終わりに参考文献リストとして専門書があった。 「みをつくし料理帖」」シリーズや「あきない世傳」でも感じたが 作者が読んだ沢山の専門書のエキスでこれらの本は書かれている。 にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.08.02 00:02:45
コメント(0) | コメントを書く
[読書] カテゴリの最新記事
|
|