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下級武士の日記から読み解く、江戸時代中期の村の暮らし。 【内容情報】(出版社より) 度重なる洪水に、武士たちはどのように対処したのか。 田畑を荒らす猪の対策に、農民は銃を持てるのか。 武士と百姓は一つの村の中でどのような関係にあったのか。 伊達藩御鳥見役(鷹狩の世話役)として農村で暮らした下級武士が 40年以上にわたって記した貴重な記録を解説する。 【目次】(「BOOK」データベースより) 小鳥・落鳥といえども捕るべからず/屋形様の狩/権現森、山追/武家諸法度(幕府法令)/飯米麦の通行許可証/預御林、巡見衆宿泊所用材を伐採/未検地の知行への課税/江戸上屋敷類焼「難儀たるべし」/杉苗一〇〇〇本植林/鳥の捕獲を禁ずる〔ほか〕 ●読書メモ● ◎は私のつぶやきや調べたこと。 ●村の人別帳に登録された家数は109軒で、その内訳は本百姓75軒、水呑百姓28軒、借家6軒です。 *■本百姓(ほんびゃくしょう)■とは、主に江戸時代の日本において、領主(藩政府や徳川幕府など)に対して年貢などを貢納し、村落共同体の正規の一員と認められていた者。 17世紀世紀後半(寛文・延宝年間)を境として、その性格に差が見られるようになる。 *■水呑百姓■ 水呑百姓(みずのみびゃくしょう)は、貧しくて水しか呑めないような百姓を指す、江戸時代の貧農の呼称。 主に江戸時代の年貢の賦課基準となる石高を持たず、田地を持てない農民を指す。 水呑み百姓は田畑を所有していないため、年貢などの義務が無く、代わりに村の構成員とは認められておらず、発言権も付与されない低い身分となっていた。 親族からの身分継承だけでなく、百姓の次男や三男、本百姓から転落した者などもおり、江戸時代の農村の貧農層を形成していた。 *借家:水呑と共に、本百姓に隷属した関係。 ●山追(やまおい)=狩り 藩主の狩りは一種の軍事演習で江戸時代初期にはしばしば行われた。 ところが生類憐みの令(1687年発令)により狩りは中断された。 平和な時代が長く続き・・・。 このあと、狩は藩主の野外レクリエーションになった。 ●肝入(きもいり) *江戸時代、名主・庄屋の異名。 村の代表は村肝入である。 村肝入は百姓身分で、百姓の代表であるとともに郡奉行・大肝入の下で働く下級役員でもある。 ◎思い出したのが、■熊本民謡「おてもやん」 ■ ♪・・・村役(むらやく)鳶役(とびやく)肝入り(きもいり)どん (村の役付きさんや火消しの頭や仲人さん) あん人たちのおらすけんで あとはどうなっときゃあなろたい (いろんな世話役がいらっしゃるので、あとはうまくとりなしてくれるでしょう) ●遠島は宮城県牡鹿郡の半島部分(牡鹿半島)を指す。 ◎「遠島」という地名にもしやと思って調べてみたら、■陸と島が繋がった陸繋島(りくけいとう)■だった。 ●田畑を荒らす猪の対策。 毎年、4月1日から7月末までと期限をきって空砲願いを出していた。 ●洪水による堤防の決壊。 村人たちで治すのが基本。 損壊場所が大きくて自分たちでは直せない場合、上に訴状を出す。 ●暇証文、矢嶋家中のふたりの解雇。 一 矢嶋喜太夫家中の者、清五郎二七歳。 この度家中を永代暇(いとま)になりました。 このものは切支丹ならびに*御金山定判持ち*では御座いません。 よって暇証文、件の如し。 矢嶋喜太夫 一 矢嶋喜太夫家中の者、十平 二五歳。 (略) 矢嶋家から(清五郎と十平という)二人の若者が解雇された。 一人は他家に引き取られ、もう一人、十平は引き取りてがない。 十平は、生家があれば生家に戻り、「暇証文」を村肝入に提出して村の人別に入れてもらうことになる。 引き取り手がないからといって、やけになって暇証文を廃棄したりしたはならない。 暇証文は身分証明書なので、紛失すると「無宿人(浮浪者)」になってしまう。 *御金山定判持ち* 刺青を入れられて金山で働く前科者。 ●仙台藩は常陸(ひたち)・近江(おうみ)・下総(しもふさ)にも領地があった。 にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.06.04 00:13:24
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