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カテゴリ:国内旅行
■2021.3.27(土) 午前中は■「かごでん」■で鹿児島市内を見た後、石橋記念公園・石橋記念館に向かった。 ■石橋記念公園・石橋記念館■ 鹿児島市の中心を流れる甲突川には、江戸末期、肥後の名石工「岩永三五郎」指導のもと建造された5つのアーチ石橋(玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋)が架けられていました。 なかでも「西田橋」は、城下の表玄関として豪華に建造され、あの「篤姫」もお輿入れの時渡ったといわれます。 約150年の間現役の橋として県民に親しまれてきましたが、1993年8月6日の集中豪雨により、2橋が流失してしまいました。 残った「西田橋」など3橋を移設・復元し、併せて石橋の架橋技術や当時の歴史をわかりやすく伝える「石橋記念館」を整備した公園です。 橋下の「水の流れ」では、安心・安全で「古き良き時代」の川遊び体験ができます。 また「水遊びスポット」、子どもたちの学習の場、観光や憩いの場所として親しまれています。 隣接する祇園之洲公園には三五郎像や、世界近代化遺産候補の薩英戦争(祇園之洲)砲台跡などもあり、石橋記念公園とともに憩いのスポットとなっています。 ■「岩永三五郎■ 石橋の建造中、石橋建造技術の漏洩防止のため、三五郎達を永送り(暗殺)するのではないかという噂が立った。 これは三五郎が藩の内情に通じ過ぎたためとも言われる。 かねてよりこの事を心配していた三五郎は、連れてきた仲間たちを様々な口実をつけて肥後国に返した。 最後まで残った三五郎自身も、嘉永2年(1849年)に帰郷を許される。 薩摩藩から送られた刺客により現在の出水市付近で捕らえられるが、腹を据えた三五郎の態度に感心した刺客が、秘密裏に三五郎を逃がしたと言われる。 故郷に戻った三五郎は嘉永4年(1851年)、鏡町(現八代市)にて59歳で没する。同地には現在でも墓が存在する。 ▲鹿児島市では、丸に十の字をよく見る。(公園にて) ♪見えた見えたよ 松原越しに 丸に十の字の オハラハー 帆が見えた ♪竹にスズメは 仙台さんの御紋 丸に十の字は オハラハー 薩摩様 ■福岡県八女の石橋■ 石橋公園を見た後、 「西郷(せご)どん」のロケ地にもなった『仙巌園(別名:磯庭園)』へ。 ここは、ボランティアガイドさんに説明を聞きながら歩いた。 薩摩藩主、島津家の別邸として築かれました。 2015年には「明治日本の産業革命遺産」として園一帯が世界文化遺産に登録されています。 別邸ですが、一時、29代・島津忠義の頃には、本邸として使用され、「迎賓館」の役割も兼ねていました。 御殿の様子から、この地を700年もの間治めてきた島津家の栄華、当時の暮らしぶりに触れることができます。 錦江湾と桜島が借景の庭園とはスケールがでかい!! ▲日本初のガス灯実験仙巌園にある鶴の姿の灯籠。 ▲獅子乗大石灯籠。 近くのスタバでお茶。ここも丸に十の字。 スターバックスコーヒー 鹿児島仙巌園店 レトロな白い洋館の建物で、実は歴史的にも貴重。 島津家ゆかりの登録有形文化財「旧芹ヶ野島津家金山鉱業事業所」をリノベーションした建物なんです。 仙巌園から歩いて、『異人館』へ 仙巌園から、徒歩数分の所に『異人館(旧鹿児島紡績所技師館)』があります。 こちらも足をのばして訪れてみたい場所です。 異人館(旧鹿児島紡績所技師館) 『異人館』もまた、レトロモダンな雰囲気を楽しめる建物。 日本で初期の洋風木造建築で、海外の雰囲気漂うコロニアル様式。 建築好きさんにはたまりませんね。 ちなみに、なぜ“異人”の館なのか――。 それは幕末、鹿児島紡績工場がこの地につくられ、その操業を指導するイギリス人技師の宿舎であったからだそうですよ。 ◎28km ●11512歩 にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2021.04.20 23:22:52
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