テーマ:国内旅行(1459)
カテゴリ:国内旅行
■2021.4/2(金) ●出水は肥後との国境という地理的環境から、鹿児島藩で最大の麓集落として整備されました。 町の整備に尽力したのが、寛永6(1629)年に当地に入った地頭の山田昌厳(しょうがん)で、以後20~30年かけて現在見られる町並みが整えられました。 ●武家住宅の中には門扉のない石柱門を設けたり、 魔除けの石敢當(せっかんとう)を残すものもありました。 また、敷地を囲む生垣の代わりに切石積みの石垣とした家もあります。 出水麓は石造構造物の豊かな町でもあるのです。 ●【1】出水はもともと丘陵地帯で、土地を整地したのち道を掘り下げて集落が築かれました。 道は大雨の際には排水溝を兼ね、屋敷を守りました。 【2】道の両側に腕木門を構えた武家屋敷が並びます。 【3】土留めの石垣の上に生垣をつくります。 表通りからは中をうかがいにくく、敷地内からは往来が見やすい、防衛に配慮した構造です。 ●町の南、現在小学校のある場所には、かつて御仮屋がありました。 御仮屋とは藩主が領地巡回の折に滞在した施設のこと。 現在、入口の門が残っています。 その前の道は仮屋馬場といい、馬術などの鍛錬の場として使われました。 ▲味のある風情の家は、蕎麦屋さんだそうだ。 ▲囲炉裏▼囲炉裏の横には、逃げることのできる作りになっていた。▼ ▲家の中で弓の稽古が出来るようにこの部分だけ天井が高くなっていた。 ▲この家の石垣は、石が切られ整然としている。 大河ドラマ「西郷どん」でも使われた場所。 ▼こちらは、川から拾ってきた石で出来た塀。 武家屋敷は、基本的な一区画が900坪になっている。 山林=竹林や林に300坪、畑に300坪、屋敷に300坪の900坪。 写真は、竹林や林部分。 屋敷群のあちこちに西郷隆盛や坂本龍馬ら維新の偉人をかたどったシラス(火山灰)製の砂像を展示。 ■肥後の国の石工、岩永三五郎は、■嘉永2年(1849年)に帰郷を許される。 薩摩藩の内情を知りすぎたので、薩摩藩から送られた刺客により現在の出水市付近で捕らえられるが、腹を据えた三五郎の態度に感心した刺客が、秘密裏に三五郎を逃がしたと言われる。 この出水麓は、薩摩と肥後のさかいの町だ。 出水麓(いずみふもと)を出てしばらく行くと、 ▲特攻碑公園というのがあった。 ▲歩哨が見張る場所。 ▲防空壕入り口。ほかに3か所あったが、爆撃により2か所は潰され、2か所残っている。 鹿児島は、沖縄に飛び立つ兵隊が多くいたのであちこちに、第二次世界大戦の跡が残っている。 1956(昭和31)年に公式発見されたこの公害は、今も「水俣病」であると認められることを望む患者が後を絶たないなど、60年以上経っても、本当の収束には至っていない。 そんな■水俣病資料館■に行った。 (▲広大な埋め立て地) 汚れた海は、1982~85年に鋼板を設け、90年に埋め立てが完成した。 しかし、鋼板の耐用年数は約50年とされていた。 熊本県は、腐食の進行が想定より遅いとして少なくとも2050年ごろまで性能を維持できるとしているが、その後の方針は決まっていない。 元国立水俣病総合研究センター国際・総合研究部長で、今も水俣で水銀の研究を続ける赤木洋勝さん(75)は、大きな地震で埋め立て地が液状化し、水銀を含む水が地表に噴き出すことを懸念する。 「単に水銀を集めて囲っただけの場所。 汚染が残ったまま条約の地をアピールするのはちぐはぐだ」と話す。 熊本学園大の中地重晴教授(環境化学)は、750億円かければ、埋め立て地の水銀汚泥を掘り起こし浄化することができる、との試算を2014年に発表した。 鋼板や護岸はいずれ更新しなければならず、この先、大地震や大津波に襲われるかもしれない。 ずっと未来まで鋼板や護岸をつくり続けるのか・・・。 水俣病の解決はまだなされていない。 ◎「会社ゆきさん」という言葉に現在の原発で働く人と重なる。 ■水俣病の被害拡大はなぜ止められなかったのか。■ ■水俣病の発生・症候■ ◎走行距離:72km ●8750歩 にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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