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カテゴリ:読書
見合い相手としてあらわれた夏目金之助(漱石)に一目惚れした鏡子。 「苦労するが大成する」相手だという占い師の言葉を支えに結婚を決めるが、慣れぬ土地での新婚生活に戸惑う。 しかし、それは今後ふりかかる苦難の序章にすぎなかった……! 漱石没後100年に読みたい、山あり谷ありの文豪一家グラフィティ。 文庫書き下ろし作品。 ●読書メモ● 鏡子の視点から書かれた漱石の一生で、素顔の漱石が良くわかった。 悪妻という評判の鏡子だが、まったく悪妻にあらず。 なぜ悪妻になったかというと、 ●お見合いの席で(歯並びの悪い)歯を出して笑ったこと!!! 当時は、大きな口を開けて((´∀`))ケラケラ ことは、はしたないとされていた!! 漱石は、裏表のない鏡子に好感を抱く。 ●早起きできなくて、夫に朝食を出さずに勤めに出したこと。 「眠いのを我慢していやいや家事をするよりも、多目に睡眠をとって、良い心持で家事をするほうが、何倍も経済的なのではありませんか?」 と言い返して、漱石を閉口させることもしばしばだったという。 ●漱石が暴力をふるうとくってかかったこと。 子供を守るために必死になって立ち向かったのは、むしろ誉められること。 ●金使いが荒かったことくらいか。 金使いが荒いといっても、昔からお嬢様で育っているので、季節が変われば、新しい着物を買うのは、鏡子にとっては常識。 二人とも、借金を頼まれると、ノーと言えないようなところがあったらしい。 1896年(明治29年)、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任。 鏡子は、父と熊本まで行くのだが、当時は、東京から熊本まで4泊5日の旅だったという。 明治 29 年 9 月 1 日 新橋・神戸間に初めて急行列車を運転。 しかし結婚のため出発したのは、6月4日。 汽車を使って乗り換え、乗り換えて行ったのか・・・。 明治のはじめは、新橋、横浜を汽車、横浜ー神戸を郵便船、神戸から九州まで船便という行程だった。 ■漱石の子ども時代は、里子に出された。 八番目の子で古道具屋に里子に。 漱石の姉が、たまたま通りかかったら、藁籠に入れられ、店先にほったらかしにされていたので可哀そうになり、 抱いて連れて帰った。 次に四谷の塩原家に養子に出した。 可愛がられたが、漱石9歳の時、義父の浮気が原因で養父母が離婚。 実家に帰る。 実の両親を祖父母だと思っていた。 漱石15歳の時実の母親と死別。 漱石は、親の縁が薄い少年時代を過ごした。 ■「筆子日記」 漱石がロンドンに留学中、鏡子は手紙を書く。 幼い娘、筆子の視点から書いて送ったのを漱石が喜んだ。 「吾輩は猫である」は猫の視点から日常を描いているが、これは、「筆子日記」に影響を受けたのか??? ●当時、外国航路に乗船する日本人の名前は新聞に掲載された。 ●小説『坊っちゃん』の主人公を暖かく見守る下女・清(きよ)について、鏡子の本名がキヨであることに注目して、この作品が漱石から鏡子に宛てたラブレターだったのではないか、と指摘している。 ●妻・鏡子が暴力的な夫・漱石と別れないのは、 別れる時は妻は子を置いて身ひとつで家を出るというのが常識。 たいがいは親権は父親に、子は家に属すというのが基本的な考え方だった。 鏡子の親も経済的に苦しくなっているので、結婚を続けるほかなかった。 ●日本で最初に印税を受け取ったのは、森鴎外。 本の価格の二割五分が取り分。 漱石は、三割とるという話だ。 ●漱石の死後、多額の印税が入って、鏡子は散財した。 それで、鏡子の悪妻という評価は決定した。 ●産婆が間に合わなかったので、漱石は、四女・愛子を取り上げた。 漱石が可愛がり、抱き寄せようとすると 「あばたは、あっちへ行け」と父親を蹴とばした。 漱石は子どもの頃の病から、鼻にあばたがあった。 愛子に「あばた」と言われても漱石は怒らなかった。 にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.07.21 00:23:32
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