カテゴリ:読書
ある日、父・伊武谷千三郎が死んだという知らせが万次郎の耳に入った。 千三郎の死を信じきれない万次郎であったが、この知らせは事実であった。 良仙に死因を問う万次郎。 良仙の答えは誤って川に落ち、心臓発作を起こした、というものだった。 葬儀が終わった後、万次郎は良仙から真実を聞かされる。 それは、千三郎は刺客に襲われて死亡した、というものだった。 事実を知った万次郎は……。 ▼4月20日の老中会議で、ハリスが持ち出した日米通商条約についての最終評議が行なわれた。 この日の会議に出席をし、種痘所設立の書状を渡さなければならない万次郎。 だが、折りからの高熱で、体が思うように動かない。 高熱を押して会議に出席した万次郎であったが、阿部からの質問に答えている途中で倒れてしまう。 不覚に思う万次郎であったが、実はこれが彼の評価を上げていたのだった ●登場人物● ★伊武谷万次郎 (府中藩士。剣の才能に恵まれている)、 ★手塚良庵 (医師・手塚良仙の息子。女好きだが、腕は確か)、 ★手塚良仙 (良庵の父で蘭方医。江戸に種痘所を設立する運動をしている) ●目次● ▼タイトル ◎は私の付け加えたメモ。 ▼千鳥ケ淵の対決▼万次郎よろめ▼想われる者 ▼七化けお紺 ●橋本佐内 ◎適塾出身 嘉永2年(1849年)、大坂に出て適塾で蘭方医の緒方洪庵に師事す (適塾時代に、福沢諭吉が左内を尾行したという話があるが、 左内と福沢諭吉は同時期に適塾に在籍しておらず、フィクションである)。 嘉永5年(1852年)19歳の春に父・長綱が病気のため大坂での勉強を打ち切って帰藩し、 代診に従事して患者の治療に励んだ。 11月に父が病死すると、藩医(表医師外科)の列に加えられた。 安政元年(1854年)には江戸に遊学し、蘭学者坪井信良の塾に入り、間もなく坪井の紹介で杉田成卿に師事し、蘭方医学を学ぶ。 ●洪庵「君(橋元佐内)は昔よく夜中にこっそり塾から出て貧しい連中の手当をしていたそうじゃないか。 立派なもんだ。」 ◎橋本佐内は、かなり高潔で清廉潔白な性格のようで、西郷隆盛もその無私な性格に心を打たれたり、牢獄でも牢名主に代われるものならかわってやりたいと思われるほどの人格者だった。 一方で野心家な面があり、この世に名を残したいという思いと行動力と頭脳見識があり、その結果が結局命取りになってしまった。 ●(洪庵が)破門にしたのは四人だった。 ▼縁組 ●適適斎塾 ◎■号を洪庵の他に適々斎、華陰と称する。■ 「適塾」は、この号から。 ▼難題▼使節江戸へ▼本陣待ち伏せ ▼将軍の一番長い日▼裏切者 ■陽だまりの樹(一)■ ■陽だまりの樹(二)■ にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.08.13 00:44:12
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