テーマ:国内旅行について(2620)
カテゴリ:国内旅行
■11月9日(火) 土肥港から雨の中、フェリーに乗って静岡市の清水港に向かう。 70分の船旅。 さらば、伊豆半島・・・。 すっきりと晴れていれば、富士山が見えたはずだけれど、今回は、この絵をみて納得する。 そこから陸路で鉾田へ行き、再び海路で銚子に到着。 21日に銚子の波崎から海路で駿府へ向かい、 23日に清水港に上陸した。 同日夕方には宝台院に入った。 ここで1年2カ月の謹慎生活を送ることになる。 ◎水戸から清水港まで陸路と海路で5日間かかっている。 ■弥次喜多銅像■ 十返舎一九の「東海道中膝栗毛」刊行200周年を記念して建てられた銅像。 東御門の手前、巽櫓をバックに弥次さん(左)喜多さん(右)がベンチ とセットになって佇んでいる絶好の写真スポット。 十返舎一九は静岡市出身。 駿府城に行ってガイドさんの話を聞いた。 ▲門の材木の太さよ!!▼ 本丸跡にある鷹狩り姿の徳川家康公之像。 この後、三保の松原へ。 ここでもガイドさんの説明を受けた。 ♪羽 衣♪ ♪あれ天人は 羽衣の 舞を舞い舞い 帰り行く 風に袂が ヒラヒラと 羽根に朝日が キラキラと 松原こえて 大空の 霞に消えて 昇り行く あれかくれ行く 松原は 三保の浜辺か なつかしや 浜の漁師は 安らかに 栄え栄えよ いつまでも 日本一の 富士山も 霞の下に 消えてゆく ■三保の松原■ 三保松原は約7kmの海岸に約3万本の松が生い茂り、松林の緑、打ち寄せる白波、海の青さと富士山が織りなす風景は歌川広重の浮世絵や数々の絵画・和歌に表現されてきました。 三保松原の一角には、 天女伝説で知られる羽衣の松があり、毎年10月には松前で三保羽衣薪能が開催されます。 また、世界遺産構成資産の一部であり、パワースポットとしても人気の御穂神社や 常世神の通り道である「神の道」も付近にあり、ここを歩けば清々しい気持ちになります。 ■清水はサッカーのまち■ 今から半世紀前の1956年(昭和31年)、清水市(当時)の江尻小学校に一人の新人教師が着任しました。 「ボールをけってはいけません。」そんな校則がある時代でしたが、放課後、校庭で子供たちにボールをけらせました。 そして、この年、全国に先駆けて少年サッカーチームを結成しました。 1967年(昭和42年)には、清水市内の各少年団が半年かけて戦う日本初の小学生リーグもスタートしました。 (▲道の歩道の境もサッカーボールが!!) 新しいものを抵抗なく受け入れる港町の気質に加えて、「サッカーで人間を育てる」という清水の熱い思いが少年サッカーを育てました。 資料提供:NPO法人清水サッカー協会 ■次郎長富士■ 旅行けば 駿河の国に茶の香り 名代なるかや東海道 名所古跡の多いところ 中でしられる羽衣の 松と並んでその名を残す 街道一の親分は 清水港の次郎長 次郎長のゆかりの地をガイドさんに案内してもらった。 ■清水 次郎長■ 文政3年1月1日(1820年2月14日) - 明治26年(1893年)6月12日)は、幕末・明治の侠客、博徒、実業家。本名、山本 長五郎(やまもと ちょうごろう)。 米問屋山本次郎八の養子。 養家没落に伴い、博徒となり,やくざ仲間で名をあげて清水に縄張りをもち、次郎長伯山と異名をとった三代目神田伯山の講談から広まり、 広沢虎造の浪曲(ラジオ放送、レコード)、その映画化で「海道一の親分」として取り上げられ人気を博する。 大政、小政、森の石松など、「清水二十八人衆」という屈強な子分がいたとされる。 戊辰戦争の際に修理で立ち寄った清水港に逆賊船としてそのまま放置されていた 咸臨丸(榎本武揚の率いる旧幕府艦隊の旗艦)の中から、新政府軍に殺された乗組員の遺体を小舟を出して収容し丁重に葬ったことから、 次郎長のこの義侠心に深く感動した 幕臣の山岡鉄舟と知り合い、旧幕臣救済のため、維新後は富士の裾野の開墾に乗り出し、社会事業家としても活躍した。 ●山岡鉄舟は、幕末の三舟と言われた。 幕末の三舟(さんしゅう)は、幕末から明治時代初期にかけて活躍した幕臣である勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の3名の総称。 ●咸臨丸のことは、今回、はじめて知った。( ;∀;) 朝から雨で富士山は見えなかった。 12346歩 にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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