テーマ:国内旅行について(2620)
カテゴリ:国内旅行
■11月10日(水)後半 ■前半■ ■人質時代の家康が学問した、清見寺(せいけんじ)■に行き、ガイドさんの案内で寺の中を見て回った。 清見寺(せいけんじ))は、駿河湾を望む風光明媚な高台にあり、室町時代には雪舟が、明治時代には夏目漱石や高山樗牛、島崎藤村が訪れている。 富士山、三保の松原、清見寺を3点セットで描くことを雪舟が始めたという。 寺伝では奈良時代の創建と伝える。 平安時代は清見関(清見ヶ関)に置かれた比叡山を総本山とする天台宗の寺院であった。 鎌倉時代に禅寺として復興し、足利尊氏や今川義元の帰依を受けて繁栄した。 また、その頃、徳川家康は今川氏に人質としてあったが、当寺の住職太原雪斎に師事し、当寺で勉強していた。 交通の要衝であり、武田氏による駿河侵攻の際には、今川氏真が本陣を構えたものの、薩埵峠の戦いによる家臣の相次ぐ離反、武田方への内通により戦わずして駿府城に撤退している。 江戸時代には徳川氏の庇護を受けたほか、東海道の目の前にあることから、朝鮮通信使や琉球使の接待がここで行われた。 広島県福山市鞆町にある福禅寺、岡山県瀬戸内市牛窓町にある本蓮寺と共に朝鮮通信使遺跡として国の史跡に指定されている。 また庭園も国の名勝に指定されている。 なお、寺の境内を東海道本線の線路が横切っている。 ■清見寺■ 欄間が特徴的だった。▲ ▲折上げ格天井(おりあげごうてんじょう)=高貴な人をもてなす天井。 ▲玉座の間。 寺の名前の由来は、この近くの海、清見潟。 この後、明治、大正、昭和と活動した政治家、西園寺公望(さいおんじきんもち)の冬の別荘、坐漁荘(ざぎょそう)に行った。 ここにも、ガイドさんが常駐していて、達者な語り口でガイドしてくれた。 清見潟あたりは、明治末期からは海岸保養地として別荘も建てられ、西園寺公望(さいおんじきんもち)の坐漁荘(ざぎょそう)は有名であった。 清水港の拡張と整備、沿岸の埋立てにより往時のおもかげは失われ、興津埠頭(ふとう)はコンテナ基地となり人工海岸となった。 ■坐漁荘(ざぎょそう)は、■ 元老であった公爵・西園寺公望が1920年(大正9年)に静岡県庵原郡興津町(現在の静岡県静岡市清水区)に建てた別邸。 建設費用は西園寺の実弟住友友純の住友家が全額負担し、同年12月に西園寺に提供された。 別荘は後に「坐漁荘」と名付けられたが、これは太公望呂尚が 「茅に坐して漁した」という故事にちなむものである。 西園寺は一年の四分の三をここで暮らし、夏には御殿場の別荘に避暑に訪れ、東京府東京市神田区駿河台の本邸に入るのは東京に政治的用事があるときだけだった。 (▲浴室に続く床は、滑らないように工夫して、しかも美しく作ってある。) 門は瀟洒な編み竹扉で、小料理屋と間違えられたこともあったという。 一階には八畳間が二つ並んでおり、西園寺はそこで生活していた。 二階は客間として用いられた。 一見質素な作りであったが、木材は上質であり、外壁はヒノキの皮で葺かれていた。 (▲西園寺公は、竹が大好きだったそうで、あちこちに竹の素材の物があった。) 西園寺が最後の元老である重要人物だったため、大正から昭和にかけて激動する日本の政治の数々の局面でクローズアップされた舞台となった。 当時の日本政界の中枢人物による興津の坐漁荘詣でが頻繁に行われた。 建屋の老朽化が著しくなった 1968年(昭和43年)に、博物館明治村への移築話が纏まり、 1970年(昭和45年)に明治村での移設公開が始まった。 その後、2003年(平成15年)には登録有形文化財に登録され、 2012年5月23日より建物保存のため大規模工事が行われた。 2017年(平成29年)2月には、数寄屋造住宅の貴重な現存例として、重要文化財に指定された。 現在、静岡市清水区興津清見寺町115番地に存在するものは2004年(平成16年)に復元されたものであり、興津坐漁荘の名称で一般に公開されている。 【格言など】これで日本も滅びるのや,今から覚悟を固めておくことどすな(軍部の台頭に怒って) 富士、よく見えた。 ●10960歩 にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.12.13 00:30:50
コメント(0) | コメントを書く
[国内旅行] カテゴリの最新記事
|
|