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2021.12.16
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カテゴリ:国内旅行

■11月11日(木)
朝、起きたら、これまでで最高の天気。
よって、今日の富士のくっきりと美しいこと。

昔の旅人は、この富士に、どれだけ励まされただろう。

見つつ行け 旅に病むとも 秋の不二
         夏目漱石

旅人を 迎える富士の 峰白し  天地はるな

この日は、東海道の岩淵(富士市)という地区をガイドさんの案内で歩く。
富士山に向かってあるくので、どこから見ても、くっきりと富士山が見えた。
富士三昧!


ところで、「間の宿(あいのしゅく)」というのをご存じだろうか?

(▲東海道・一里塚)
間の宿(あいのしゅく。)は、
日本の近世に当る江戸時代の主要街道上で発達した施設の一種。
宿泊は禁止されていた。

宿場間の距離が長い、峠越え等の難路である等、旅人に多大な負担を強いる地勢があると、係る地点には需要に応える形で便宜を図る施設が自然発生的に興るものであるが、その様にして宿場と宿場の間に興り、発展した休憩用の施設が「間の宿」である。
ただし、宿場としては非公認であって、公式には宿ではなく村若しくは町とされ、旅人の宿泊は原則禁じられていた。


岩淵宿(東海道・間宿)概要: 
岩淵宿は東海道の蒲原宿と吉原宿にある宿で、正式な宿場町ではなく、ある種利用者の利便の為設けられた間宿とされます。

(▲ここに渡しがあった。)
この地は富士川の川越を控えている事もあり、洪水など水量が増すと川止めとなり必然的に岩淵宿が利用される事になります。
又、甲斐国(現在の山梨県)と東海道を結ぶ身延道が交差する交通の要衝であった為、江戸時代中期以降、大幅に広がった久遠寺(山梨県身延町)参りの参拝者達も利用したと思われます。


岩淵村の名主であった常盤家は、岩淵間宿の小休本陣や富士川の渡船役を勤めた家柄で、

現在でも当時の屋敷が残され当時の宿場町の名残が見られます。

現在の常盤家住宅主屋は江戸時代末期の安政元年(1854)に発生した安政大地震で大破後に再建されたもので木造平屋建、切妻、桟瓦葺き、桁行8間、張間5間半、建築面積249㎡、東海道に残る数少ない本陣建築の遺構として貴重で、「国土の歴史的景観に寄与しているもの」との登録基準を満たしている事から平成10年(1998)に国登録有形文化財に登録されています。


岩淵宿はずれにある一里塚は江戸から37里目のもので、

東海道に残された数少ない一里塚として貴重な事から昭和61年(1986)に静岡県指定史跡に指定されています。

榎(えのき)
漢字の「榎(エノキ)」は夏に日陰を作る樹を意味する和製漢字である。
夏は、木の下で涼をとり、
実が甘くて美味しいので、お腹のすいた旅人が食べたかもしれない。


榎の名前の由来には諸説あり断定不可能だが、
①信長、家康、秀忠、家光のうちの誰かが、(マツ以外の)「余の木(ヨノキ)」または「良い木(ヨイキ)」を一里塚に植えるよう命じ、これに応じる形で植えられたのがこの木であったため(ヨノキ)・(ヨイキ)が転じてエノキとなった。
②縁起の良い木を意味する「嘉樹(ヨノキ)」が転じてエノキとなった。
③秋にできる朱色の実は小鳥や森の生き物に人気が高く、「餌の木」からエノキとなった。などの説がある。
 「夏の炎天には私も学校の帰途(かえりみち)井戸の水で車力や馬方と共に手拭てぬぐいを絞って汗を拭き、土手の上に登って大榎の木蔭に休んだ。」■日和下駄 永井荷風

私も、子どもの頃、エノキの実を食べた。
 尚、間の宿より小規模な施設を立場(たてば)と言い、所謂“峠の茶屋”等がそれである。
間の宿のなかには立場が発展したものもある。

(▲富士川岸に建つ、角倉了以を讃える碑)
富士川(ふじかわ)は急流で難所も多かったが、内陸の甲斐南部と駿河との交通路として、駿州往還とともに古くから水運が利用された。
 江戸時代の1602年に駿河国と甲斐国(現在の富士川町)との間に富士川渡船が開始されたという。
江戸期には甲斐が幕府直轄の天領であったため、慶長12年(1607年)の角倉了以らによる開削事業により運行の安全が確保されて、江戸への廻米輸送を中心に水運が発達した。

廻送された廻米は駿河国岩渕(現在の静岡県富士市)の河岸で陸揚げされ、カントクと呼ばれる馬力により蒲原へ運ばれそこからさらに清水港へ集められた後大型船で江戸へ廻送された。
また、上荷には塩や海産物など内陸の甲斐で産しない商品を中心に輸送が行われ、身延詣の旅人にも利用された。
富士川沿いの沼久保地区に残る江戸時代から明治にかけての帳簿が記されている『松井文書』によると、河岸から積み出されるものは半紙やその材料となる三椏の他、煙草など多岐に渡り、到着したものは甲州より運ばれたものであった。


●(川の増水で渡れない時は、)宿役人から書付一札を貰ったと日記に記しています。
きっと天候や道中の困難による延泊を照明してもらって、あとで届けるのです。
「下級武士の食日記」より
後半に続く。
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Last updated  2021.12.16 00:07:16
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