テーマ:国内旅行について(2620)
カテゴリ:国内旅行
■11月11日(木)後半 ■間の宿(あいのしゅく)■を後に、田子の浦にやってきた。 田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける 山部赤人 (約:田子の浦を通って(視界の開けたところまで)出て見ると、真っ白に、富士山の高いところに雪が降り積もっていることだよ。) 山部赤人の富士山を詠んだ歌の碑があった。 山部宿禰(すくね)赤人、不盡山(ふじさん)を望める歌一首幷(ならび)に短歌 天地(あめつち)の 分れし時ゆ 神(かむ)さびて 高く貴き 駿河なる 布士(ふじ)の高嶺を 天の原 ふり放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠れひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不盡(ふじ)の高嶺は 反歌 田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 不盡の高嶺に 雪はふりける 山部赤人のこの歌を習ったのは、高校の時で、この時はじめて、長歌と反歌というのがあると習った。 この時の先生は、50代くらいの女性で、当時の私は、 大変な年寄りと思っていたが、今の私よりも随分若い。 先生は、「田子の浦ゆ」の「ゆ」は、「から」という意味です」と言ったが、50年以上前のことなのに、昨日のことのように思い出す。 最近のことは、すぐ忘れるが・・・。 山部赤人は柿本人麻呂と共に、「山柿の門」と称えられている。 「山」は、「山上憶良」という説もあるが・・・。 ■『山部赤人がこの歌を読んだ背景』■ 国守として東国に赴任することになった山部赤人は、一族郎党を引き 連れて奈良の都から旅を続けていた。 これまでは陸路であったが駿河の国、田子の浦からは海路をとり、 さらに東を目指す。 一行のほとんどの人間にとって初めての船旅ではあるが幸いにも海は 穏やかで、時折り快い風が皆の間を吹き抜けて行く。 陸に目を向ければ、さほど遠からぬ所に富士の山がくっきりとその 美しいなだらかな稜線を見せているのも他では見られぬ珍しい光景 である。 山部赤人の碑の近くに船の形をした、ディアナ号の学習施設があった。 ■ロシアの最新鋭船・ディアナ号津波の悲劇■ 嘉永7年(1854)11月4目午前10時ころ、突然大地震とともに大津波が下田湾を襲います。 湾内が空になるほど潮のひいた後、停泊していたディアナ号も津波に巻き込まれ、42回転したとも伝えられています。 マストは折れ、船体は酷く損傷し、浸水も激しく、甲板の大砲が転倒して下敷きになり、死亡した船員も出る惨状でした。 このような災害の中、ロシア側は、その日の夕方、津波見舞いに副官ポシェートと医師を同行させ、傷病者の手当ての協力を申し出ています。 この厚意に応接係・村垣範正(むらがき のりまさ)はいたく感服したと伝えられています。 言葉も分からない、寸法を測る単位も違う、日本の船大工が、ロシア人と協力して作り上げた船は戸田(へだ)で造られたので「ヘダ号」と名付けられた。 この日は、「国民休暇村・富士」に宿泊。 コロナ禍とは思えないほど、混雑していた。 また、近くにあるキャンプサイトも沢山のテントが・・・。 部屋からも田貫湖と富士山が良く見え、 暮れ行く富士、 夕焼けの富士が見えた。 朝から富士三昧の一日だった。 ここまでクリアに見える日は、年間そう多くないとガイドさんが言っていた。 富士三昧の一日。ホテルの部屋から。 ●8692歩 にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.12.17 13:09:05
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