テーマ:読書(8614)
カテゴリ:読書
時は万延元(1860)年、江戸藩邸勤務を命じられた紀州和歌山藩の勤番侍・酒井伴四郎は、江戸での単身赴任の日々をこと細かに日記に記した。 蕎麦やすし、どじょうなどの定番江戸グルメから、質素倹約を主とした長屋の食生活まで、几帳面な伴四郎の日記から当時の江戸の「食」を紙上再現。 文庫化にあたり、新たに発見された史料から二度目の江戸滞在や日光出張、長州戦争従軍の様子を増補。 ■目次(「BOOK」データベースより)■ 第1章 江戸への旅立ち/第2章 藩邸と江戸の日々/ 第3章 男子厨房に入るー江戸の食材と料理/ 第4章 叔父様と伴四郎/第5章 江戸の楽しみ/ 第6章 江戸の季節/第7章 江戸との別れ/ 終章 伴四郎のその後 ●は本の写し◎は私のメモ。 ◆第1章 江戸への旅立ち◆ ●和歌山城を5月11日にたち 5月29日に江戸着。(18日かかる) ●この二人は和歌山の支藩、伊予西条藩士です。 ◎和歌山の支藩が四国にあったとは・・・。 当時は、水運しか無かったので今と間隔が違う。 ●田井の「瀬渡(歩いて渡る渡し)」。 ◎イギリスには、フォードとつく地名が多い。 それは、歩いて渡れる浅瀬のこと。 オックスフォードという地名があるが、「牡牛の渡る浅瀬」。 日本では「洗い越し」といい方をするそうだ。 ■フォード■ ●夜には、高麗橋あたりの繁華街をうろついて「うつくしき辻君」をたくさんみています。 辻君とは道ばたで客を引いた街娼、江戸でいう夜鷹のことです。 ◎■徳川時代に辻で客を引き、■春を鬻ぐ女のことをいふたのであるが、一説には辻君は道に立つものでなく、路傍に客の袖引くを立君と呼んだといふ。 ●さつま芋の呼び名でも東西緒違いが見られ、江戸では「八里半」、 京では「十三里」と呼んでおり、ともに距離をしめす里の文字が使われています。 江戸の八里半は、さつま芋の味が栗(九里)に似ているが少し劣るという謎かけです。 対して京の十三里は、栗よりも味が良いという謎かけと言われます。 この違いは味覚の違いと言うよりも、東西に住む人々の気質の違いかも知れません。 ◎そういえば、「みをつくし料理帖」では、江戸で焼き芋を食べながら 大坂・天満で食べた蒸したさつま芋を懐かしがる、主人公・澪と御寮さんの芳。 宝永年間になると京都にやきいも屋が現れました。 このやきいも屋は、栗「九里」に近い というなぞかけて八里半と言う看板を出していたそうです。 江戸には寛政年間に初めて やきいも屋ができ、この店も八里半と書いた行燈を出していましたが、やがて小石川に 十三里と言う看板を掲げた店が現れました。 栗「九里」より「四里」うまいと言うしゃれだたそうです。 ●京都、大坂、江戸ともに汁粉を商う店の多くは正月屋というおめでたい名で呼ばれ、看板にも正月屋と書かれています。 ◎■[汁粉売と汁粉屋]■ 幕末には江戸,京都,大坂の三都ともに汁粉売の姿が見られた。 夜鷹そば屋のような屋台を担って歩き,行灯に〈正月屋〉と書くことが多かったので,それが汁粉売の通称とされた。 正月屋の名は汁粉のほか雑煮を売ったことによるらしい。… ●(略)目黒不動を参詣しています。 江戸鎮護のために目白、目黒、目赤、目青、目黄の五色の不動尊が、江戸外周の五か所に配置されました。 ◎目白と目黒は地名で聞くけど、赤、青、黄は知らなかった。 ■東京の五色不動とは?■ ここに書ききれないほどメモしたいことがある。 にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.01.21 00:25:50
コメント(0) | コメントを書く
[読書] カテゴリの最新記事
|
|