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カテゴリ:読書
秀吉の朝鮮出兵が始まった頃のこと。 京の一商人・角倉了以は朱印船貿易を終えた帰途、備前・吉井川で人生を変える出来事に遭遇した。 了以は、舟子が「ほ~いほい、ほ~いほい」と掛け声を上げながら、上流へ舟をひっぱり上げる光景を目撃したのだ。 かねてより了以は山城の北西部、大堰川・保津川に水運を開けば人々のためになると考えていて、その方法がわからず悩んでいたが、奇しくもこの光景がその方法そのものだった。 しかし戦国の世はまだ収まらず、了以の思いは子の素庵を巻き込み家業もなげうった末、ようやく十三年後に達成される。 さらに父子は富士川や高瀬川開削舟運にも着手すると、豪商へとまっしぐらに進んでいくーー。 「京都の水運の父」として歴史に名を残すことになった、父と子の生きざまを描く歴史長編。 志を立て、私財を投じ、京都・保津川を開き、高瀬川をつくった男、角倉了以(すみのくらりょうい)と 父了以の高名に隠れているが、近世の経済や文化の発展に多大な役割を果たしたその息子、素庵(そあん)の物語。 了以・素庵による朱印船貿易、高瀬川・保津川・富士川の開削ー、近世角倉一族は大商人・事業家として広く知られている。 しかし、本姓が吉田で一族の本流は医家であること、 「角倉」の名は京都・瑳峨の地での土倉・酒屋業に由来すること。 またその一族が美麗な古活字版・瑳峨本の出版、和算の発展に果たした文化的な功績、あるいは幕臣としてのあり方などは思いのほか知られていないだろう。 この本は、父の業績を息子の目から描いたもの。 ●メモ ◎私のコメント ●「ほ~いほい、ほ~いほい、ほ~いほい・・・」 備前吉井川(びぜんよしいがわ)(古くは雄神川(おがみがわ)又は、和気川(わけがわ)と呼ばれた)の左岸を聞きなれない独特の掛け声を掛けながら、舟子(ふなこ・舟を操る人)が、荷を積んだ舟を、上流へ引き綱でひっぱり上げる光景が目に入りました。 父、了以は宗家の栄可(えいか)伯父さんと共に、高瀬舟が吉井川をさかのぼる光景を見てびっくりし、その瞬間、長い間迷っていた自分の進むべき道を決断した・・・(略)。 ●その古き時代、この嵯峨野の地は角蔵(すみのくら)と言われており、その名を屋号として五代、父吉田了以の代に至って屋号を姓としました。 「(略)角蔵から角倉に変えてはどうか」と言われ、以後、角倉に至った・・・。 ●父(了以)は、造船の技と舟航の技、全てを掌握している旗頭、来住太郎衛門さん以下、優秀な船頭、舟子や船大工、鍛冶師など合わせて18名を牛窓(岡山県)から招きました。 (▲■富士川)■ ●慶長12年(1607)徳川家康公から富士川の開削を命じられる。 *何し負う急流と言われる、富士川の駿河岩淵の河口より、遠く甲州鰍沢(かじかざわ)まで、大よそ十八里の開削に取り掛かりました。 ●富士川の開削は、集められた甲州産や信州産の年貢米、その他薪炭や木工芸品などを積んで下ることになります。 東海道まで五、六時(とき)=(一時は2時間、10時間か12時間かかった)かかって運び、 それから江戸の浅草や蔵前へ、陸や海から送り込んだと聞いております。 逆に岩淵から鰍沢(かじかざわ)府中へは塩や海産物を積んで、船頭並びに曳き子三人から五人が一組でひっぱり、四、五日かかって戻ってきたようです。 途中、四か所の中継地を経て、八組から十組ほどが連なって上がりました。 ●舟路開削のお陰で、そこに住む農家の次男や三男の働き口が生まれ、舟の数も最盛期には、八百から千艘も上下した。 写真は、了以の功績を讃えた石碑。 ●角倉家に自分を推薦して、売り込んできた男、毛利官兵衛重能(かんべえしげよし)。 算術、特に算盤を駆使して、速やかに計算をする術を身に付けていた。 ●了以「何と不思議な・・・。 軸に通った玉を上下して弾き、足し算、引き算、掛け算、割り算、即ち加減乗除ができよる。 不思議やなあ」 ◎そろばんが民衆に広まったのは豊臣秀吉に仕えた毛利重能が明に留学したのち、京都で開塾し、そろばんを教授するようになってからである。 毛利重能は後の関孝和に連なる和算の始祖となっている。 すごい人が角倉家で働いていたのだ!! ●毛利官兵衛重能は、珠算教育を広めるため「天下一割算指南道場」という看板を掲げて珠算道場を開いた。 珠算道場には全国から人々が訪れ教育を受けた生徒が全国に散らばって行った。 ●本阿弥光悦と私(素庵)は互いに補い合い、私が版元の役を担い、 光悦の筆で書き表した高級な雲母(きらら)模様の意匠を施し、 高級な嵯峨本として、「源氏物語」や「方丈記」、「勧世流謡本」、「百人一首」など次々と世に出しました。 ◎本阿弥光悦も大芸術家だ。 素案は、忙しい中でも文化的な活動も支援していたようだ。 素庵は、嵯峨本という本の出版に大きく関わった。 17世紀、豊臣氏の壊滅から徳川幕府が政権をかためる慶長・元和の時代。変転きわまりない戦国の世の対極として、永遠の美を求めて〈嵯峨本〉作成にかけた光悦・宗達・素庵。 京都の高瀬川も角倉親子の造ったもの。 にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.03.24 00:08:05
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