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江戸娘と浪華の“すかたん”が恋仲に!? 内容紹介(「BOOK」データベースより) 江戸詰め藩士だった夫が急死し、大坂の青物問屋に女中奉公に出た知里。 戸惑いながらも、次第に天下の台所の旨いもんに目覚めていく。 ただ問題は、人好きはするが、遊び人でトラブルメーカーの若旦那。 呆れていた知里だったが、野菜への純粋な想いを知り、いつしか強く惹かれるように。 おもろい恋の行く末は? 第一章 ちゃうちゃう 第二章 まったり 第三章 だんない 第四章 ぼちぼち 第五章 ええねん 第六章 しんど 第七章 ほな 第八章 かんにん 第九章 おもろい 第十章 すかたん ■先生のお庭番■ ■「類」■に続いて、朝井まかての「すかたん」を読んだ。 ところで、「先生のお庭番」って、出島でシーボルトの庭の手入れをする少年の話だけど、江戸時代、スパイのことを「御庭番」という。 シーボルトもスパイだったという説があるが、「先生のお庭番」というタイトルは、ふたつの言葉をかけているのだろうか? ●「北船場の今橋界隈いうたら、大坂でも名の通った商家ばかりが集まっている処だす。・・・」 ◎今橋は、大坂の陣絵図などに名前が登場することから、豊臣時代にはすでに架けられていたと推定される。 この地は、江戸時代初期の頃まで今橋の北側には町屋がなく浜岸であったが、中期の頃から西詰め付近は両替商が軒を並べ、金融の中心街となり、特に通りをはさんで向き合った天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛が有名で「天五に平五、十兵衛横町」と称され繁昌した。 この様な町の発展に伴い、町の東にも橋がないと不便なため、京橋町の道筋に新たに架けられたので「今橋」と呼ばれたとの説がある。 この頃の橋は、橋長75.8m幅員5.5mで、町橋としては規模の大きい橋であり、橋のたもとから尼崎方面への乗合船も出ていた。 今橋の欄干はとても低く、油断して身を乗り出せば川へ落ちそうになるのだが、橋の中ほどに佇んで眺める旅人が後を絶たない。 大坂名所ということで役人も大目に見ていた。 大坂と江戸の違いが面白い。 ●江戸は土葬だが大坂は火葬が風習で・・・ ●「江戸は小豆の腹が裂けるんを厭うて赤飯にささげ豆を使うらしいけど、小豆のこの甘みが無いと赤飯とは言えんな。・・・」 ●大坂の商家には門松を飾る風習がなく軒に注連飾りを張る他は根引きの細い夫婦松を戸口の柱に釘で打ちつけるだけである。 それもあってか江戸で言う松の内は「〆(しめ)の内」と呼ばれ、注連飾りを飾っておく十四日までがいわば正月である。 作者の朝井まかて氏は、あるインタビューで 「幼い頃から植物が好きだった」と言ったそうだ。 「先生のお庭番」も庭師の物語。 「類」に登場する森鴎外も植物を愛でるシーンが多くあった。 「すかたん」は、江戸時代の野菜を作る百姓、競り市の様子、野菜の種類、野菜を商う青物問屋など興味深かった。 ●美濃弁で羨ましいを「けなるい」と言う。 ◎大阪弁も「けなるい」を使う。 今は、死語。 ●大坂の商家では当主を旦那さん、その妻をお家さんと呼ぶ。 まだ部屋住みで一家を任されていない次の当主は若旦那(わかだん)さんで、その妻も御寮人(ごりょん)さんと 呼び名が決まっているらしく、しかも「さん」を「はん」と呼ぶのを許されているのは目上の者だけで、これを間違えると面倒なことになる。 主人公、知里のつとめる商家には、その家専用の小さな川、舟入があった。 いわば、プライベート・ビーチみたいなもんか。 その家の主人や妻は、そこから舟に乗り、出かける。 もちろん、使用人は徒歩。 ■天満の市■ ♪ねんねころいち 天満の市で 大根そろえて 舟に積む 舟に積んだら どこまでゆきゃる 木津や難波の 橋の下 木津村と難波村は、一世紀近くにわたって、天満市場に対抗する地元の市を開こうと活動を続けていた。 難波村の百姓と青物問屋の対立も描かれていた。 にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2022.04.15 20:56:50
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