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カテゴリ:国内旅行
■4月12日(火)-2
兵庫県・丹波篠山市、鳥取市の次に行ったのは、鳥取市・鹿野町。 鹿野(しかの)町は、JR山陰本線浜村駅より車で約15分、鳥取市街からは車で約30分という位置にあります。 鹿野をガイドさんの案内で歩いた。 城下町の中央を鹿野往来が通っています。 四百年流れつづける水路。 鹿野城主亀井茲矩により造られた水路が、町の中を縦横無尽に流れています。 取水は東の水谷川、西の河内川から引き込み、当時のまま今なお流れ続けています。 ▲馬や牛をつなぐために使用したとされる「牛つなぎ石」。 現在では、藩政時代に設置させれたと言われるものが7個あり、当時、因幡・伯耆の中心地で、交通・商業の要衝の地であったことがうかがえます。 ■格子戸に、掛けられているのは、「鹿野すげがさ」。■ ▲鹿野城の堀。 鹿野城は現在、天守などの建物はなく石垣などの遺構が残されています。 天正九年(1544)出雲の尼子勢出身の亀井武蔵守茲矩が鹿野城主となり、父子二代でこの城を拠点に三七年間統治しました。 元和三年(1617)二代目政矩は津和野へ移封、城は寛永五年(1628)焼失し、石垣は正保元年(1644)取り壊されました。 戦国時代、下剋上の世にあって一貫して主君尼子氏のために命を掛けて戦った武将が山中鹿之介(幸盛)です。 願わくば我に七難八苦を与えたまえ 大きな仕事を成し遂げるためには、望んで苦しいことに立ち向かうべきだという考え。 天才的なセンスをもっていた鹿之介だが、日々の鍛錬を欠かさなかった。 鹿之介は、中国地方の有力者毛利氏との争いに敗れた尼子氏を再興するため、近畿、中国地方の各地で転戦しますが、ついには播磨の国の上月城に追い詰められ、捕われの身となり、備中高梁川の渡し場で斬殺されました。 鹿野城主となった茲矩は、家臣団を備中高梁川に派遣し、鹿之介の遺骨を鹿野に持ち帰らせ、霊を慰めるため寺と墓を建てました。 寺の名は鹿之介の別名・幸盛(ゆきもり)から「幸盛寺(こうせいじ)」と名づけられました。 戦国時代、山陰地方を治めていた尼子氏には、「楠木正成にも勝る」と謳われた武将がいた。 その勇猛さと才智を頼山陽や勝海舟にも激賞された山中鹿之助幸盛は、天文十四年(一五四五年)、出雲国富田に生まれた。 幼少期を山野で過ごした鹿之助は、三日月の前立てと鹿の双角を備えた兜を被り、一騎打ちに抜群の強さを発揮した。 しかし尼子氏は幾多の戦いを繰り返した後、強敵毛利元就の軍門に下ってしまう。 野に下った鹿之助だけは、百回打ちのめされても千回挫折を味わっても、尼子家再興を諦めなかった。 この日泊まったホテルの窓から見えたのは倉吉駅。 ●9894歩 ■4/11:山陰(鳥取紀行)の前に丹波篠山・篠山城■ ■4/11-2:山陰(鳥取紀行):重伝建・丹波篠山城下町■ ■4/12:山陰(鳥取紀行):鳥取城と仁風閣■ にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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