テーマ:国内旅行について(2621)
カテゴリ:国内旅行
■6/18(土)-2 青森県・下北半島は、またの名を鉞(まさかり)半島という。 ここまでは、知っていたが、もうひとつの名前は「斗南(となみ)半島」というといのは、こちらに来て初めて知った。 下北半島に、斗南藩があったというが、初めて聞いた。 ■斗南藩について■ 斗南藩の歴史は、明治になってから始まる。 ★明治元年(1868)。 斗南藩の元の会津藩、戊辰戦争で新政府軍に徹底抗戦したため、松平容保(かたもり)は、 明治元年(1868)に23万石の所領を没収されて蟄居の身となった。 ★明治2年(1869) 松平容(かたもり)は、翌明治2年に赦免されたものの、 嫡子・容大(かたはる)が陸奥の北郡・三戸郡・二戸郡内にわずか3万石を与えられて斗南藩を立藩した。 つまり、斗南藩というのは明治になって生まれた藩なのである。 ★明治3年(1870) 4月から旧藩士らが移住を開始した。 ★明治4年(1871年) 7月14日の廃藩置県で斗南県となり、わずか2年足らずで斗南藩は消滅した。 会津から下北に移ってきた人々も、廃藩置県による旧藩主の上京により、移住してきた者の送籍・離散が相次ぎ、明治7年(1874年)末までには、多くが会津に帰郷している。 7000石たらずの荒野に藩士とその家族1万7000人が流れこんだため、たちまち飢餓に陥る。 疫病の流行、新政府への不満、住民との軋轢など、凄絶な苦難に多くがこの地を去った。 子供は朝敵、賊軍と罵られ、いじめに遭っていました。 反乱が起きなかったことが不思議なくらいでした。 藩は,田名部郊外の妙見平に目をつけて斗南ケ丘(むつ市)と名付け、長屋群を建設して開拓の基地とした。 藩士が復興を夢見た斗南ヶ丘にある斗南藩史跡地。 200世帯が暮らす街並みであったが今では、かすかに残る土塀跡のみがその当時を伝えます。 藩名の由来には諸説ある。 同藩出身の柴五郎(後に陸軍大将)によると「斗南」は漢詩の「北斗以南皆帝州」(北極星より南はみな天皇の領土である)からとったものとし、現在はこの説が広く受け入れられている。 しかし、実は出典が不明であり、なかには南すなわち憎むべき薩長両藩と斗(闘)うという解釈まである。 ▲旧斗南藩士の墓地は、史跡地より800mほど進んだ場所にあり 過酷な生活に志半ばで亡くなった藩士達が静かに眠っています。 ◆会津士魂(あいずしこん)今に伝える斗南丘(となみがおか) (下北かるた) ●8581歩 青森県・むつ市泊 6/9■青森県・青森市・三内丸山遺跡他■ 6/10■青森県:八甲田山雪中行軍で分かったこと■ 6/11-1■青森県・歩きゃ奥入瀬三里半■ 6/11-2■秋田県・青森県:十和田湖■ 6/12■秋田県:レトロな建物の小坂と青森県のレトロな建物、盛美館■ 6/13-1■ガイドさんと歩く弘前・弘前城■ 6/13-2■青森県・弘前市に洋館が多いのはなぜか?■ 6/14■青森県:弘前市:見なきゃ損!武家屋敷から白神山地(秋田側)へ移動■ 6/15-1■秋田県:世界遺産・白神山地をゆく■ 6/15-2■青森県:白神山地「十二湖」■ 6/16-1■青森県:弦の舞橋と太宰治の生家・斜陽館■ 6/16-2■青森県:ごらん、あれが竜飛岬、津軽海峡 梅雨景色■ 6/17■青森県:下北半島=まさかり半島の刃の部分■ 6/18-1■青森県:下北半島:恐山と尻屋崎・寒立馬■ にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.08.16 00:51:38
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