テーマ:読書備忘録(1394)
カテゴリ:読書
■街道をゆく41:北のまほろば冬■ 青森空港到着後、弘前へ。 石場家を訪れ、家刀自に"洋さん"こと石坂洋次郎の思い出話を聞き、弘前城の本丸から岩木山を眺める。 「松陰室」のある養生学園を訪れ陸羯南の書を見て、禅林街にある津軽氏の菩提寺・長勝寺を訪れる。 巨大な遮光器土偶がはめ込まれたJR木造駅の駅舎に仰天し、 縄文住居展示資料館で亀ケ岡遺跡の発掘品を見る。 鰺ケ沢で日本海に出て、七里長浜を十三湖へ。 河口沿いでシジミ汁を食べ、福島城跡へ。 金木で太宰治の生家「斜陽館」を訪ね、垂柳遺跡を見てから、 津軽と南部の藩境塚のある野辺地を通って下北半島へ向かう。 田名部で斗南藩の史跡を訪れ、川内、脇野沢を通って、川内の畑の集落でマタギの人と会う。 ■石場家住宅 津軽藩の御用商人であった。弘前城の亀甲門の前に立つ。 国の重要文化財。 ●石場家の家刀自(いえとじ)は、明治四十四(1911)年生まれで津軽文化そのもののような人だ。 彼女が県立弘前高等女学校の二年生の時(大正末年か)、まだ若かった石坂洋次郎に教わった。 石坂のあだ名は「洋さん」だった。 ■斜陽館 太宰治記念館。金木にある太宰治の生家。 *司馬遼太郎は、斜陽館について、ただ大きいだけで風情がないというような書き方をしていた。 ■弘前城 桜の季節が圧巻。 天守閣内部には、津軽藩の資料を展示する弘前城史料館がある。 ●(略)三層の天守閣が、津軽平野の象徴ではなく、じつはこの天守閣は、神である岩木山に仕えているのだということを知らされる。 ■田名部 円通寺、徳玄寺など斗南藩の史跡が残る。 ●会津藩約一万四千余人の斗南への移住は大変だったろう。 移住にあたって、五十人ぐらいを一組とした。 陸路をとった組もあれば、仙台や新潟に出て、そこから和船に乗ってここまできた組もあった。 藩では、かれらに支給する旅費さえ事欠いた。 途中、新政府はその窮状を見かね、アメリカの汽船を雇って輸送したりもした。 新政府の側に、内々、会津藩への処置が酷でありすぎたという反省がうまれていたのかもしれない。 そのせいか、援助もした。 明治三年七月、米四万五千石をあたえた。 あらたに隣藩となった弘前藩も、親切だった。 明治四年三月、千五百両を贈り、うち五百両は現金ではなく鋤、鍬など千挺という現物でもって支援した。 ●土地の人は、会津からの移住士族のことを、 「会津様」と尊称したが、かげでは「会津の毛虫(けだか)」などとよんだと「斗南藩史」にある。 ■長勝寺・禅林街 津軽氏の菩提寺である長勝寺は、2代藩主・津軽信枚が33カ寺を集めた禅林街に立つ。 ■つがる市縄文住居展示資料館(通称カルコ) 亀ケ岡遺跡からの出土品を中心に、縄文の世界が学べる展示館。 ■十三湖 中世に十三湊として栄えた港湾都市があった。 ●安野光雅画伯がおいしそうに味噌汁をすすっている。 司馬遼太郎と一緒に北海道に行ったことは、安野光雅の書いたエッセイで読んだ。 ■養生学園 かつて吉田松陰が訪れた「松陰室」がある。陸羯南の書も所蔵。 ■JR木造駅 駅舎前面に巨大な遮光器土偶が。 ■垂柳遺跡 田舎館村にある。 水田跡が発見された弥生遺跡。 ■川内 江戸時代、南部藩の海港として栄えた。 司馬さんは郷土史家の寺田徳穂さんを訪ねる。 ■蠣崎(かきざき) 蝦夷地(北海道)の松前氏がかつて居住していた地。 ●タイトルの「北のまほろば」について。 「まほろば」とは、まろやかな盆地で、まわりが山波にかこまれ、物成りがよく気持のいい野、として理解したい。 縄文時代、青森県は、豊かな土地だったと思う。 その証拠が三内丸山遺跡だ。 ●明治初期政府は、強引だった。 江戸時代、南部と津軽は犬猿の仲であることを、よく知っていたはずである。 その仲のわるさは、津軽の殿様が参勤交代で江戸へ往還するときも、南部領を一度も通らなかったこと でもわかる。 南部藩のほうも通さなかった。 でありながら、明治政府は南部の北半分を津軽と一緒にして青森県を誕生させた。 ●幼いころに両親をなくし、祖父母に育てられた川端康成。 その祖父母も亡くなり、一高の寮に入った。 しかし学校が休みの時、帰る家がなかった。 そんな川端は、今東光の母親にあたたかく迎えられ、休みになると弘前の今東光の家で過ごした。 ●関取は、由来、生国の山河を背負っている。 あるいはそれら山河の精霊にまもられているのである。 *ダムの建設により、水量が減り、自然の形をした川がなくなった現在、川のつく名の関取が少なくなった。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.01.19 00:20:54
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