テーマ:読書備忘録(1394)
カテゴリ:読書
八戸空港に到着。 翌日、根城跡を訪れ、樹齢600~700年の銀杏の大木を見る。 馬淵川沿いに南下し、櫛引八幡宮で甲冑を見て、階上、軽米を経ながら、かつて高山彦九郎も通った白樺の久慈街道をゆく。 久慈の巽山公園で江戸期の代官所跡や、柔道の三船久蔵十段留魂之碑を見てから、陸中海岸沿いの浜街道(ミナト街道。明治40年代に柳田国男も歩いている)を北上し、八戸へ。 板橋、侍浜、小子内、種市を経て 種差海岸に向かう。 八戸の旅館・石田家で夕食。 翌朝、八戸から百石、十和田、陸羽街道を経て北上後、野辺地に到着。 下北半島を見る。 浜へ下りると、津軽と南部の藩境を示す「四ツ森」とよばれる藩境塚があった。 ■街道をゆく3:陸奥のみち■司馬遼太郎■ ●この本を読んでから行くか、帰ってから読むか・・・大違いだ。 私は、■2022年6月■に東北地方に行った。 もし、この本を読んでいたら、行かなかった八戸にも行っているかもしれないと思った。 その反面、行った後だから、そんなことがあったのか・・・とより思いを込めて読めた。 ●読書メモ● ●津軽と南部は非常に仲が悪く、津軽の参勤交代は、南部を通らないで行った。 ●「南部には八戸だけでなく三戸(さんのへ)もあります、一戸もあります。 遠野は十戸(とおのへ)からきた地名だということ・・・(略)。」 ■「戸」のつく地名■ ●津軽は、青森県。 南部は、岩手県。 かつては、青森も南部であったが、豊臣時代に独立した。 独立した津軽の方が土地が豊かで、それ故、南部は津軽を恨んだ。 岩手県(南部)は、今も四国くらいの大きさがあるが、当時十万石だったところを見ても、稲作に向いていない貧しい土地だった。 その貧しい土地を徳川幕府は、8万石にし、新たに2万石の藩を興させた。 その小南部と呼ばれる新しい藩の中心地になったのが、八戸だった。 ●南部は、稲作に向かず貧しい藩だった。 昔は名馬を量産したが、平和な世の中がくると馬の需要が激減。 ◎そういえば、岩手県盛岡市の初夏の風物詩「チャグチャグ馬コ」など馬に関することが東北・岩手に多い。 チャグチャグ馬コの祭は、農業との縁が深く、農民による馬体安全祈願の蒼前詣が起源といわれています。 岩手県は遠く奈良時代から馬産地として有名で、滝沢市の鬼越の蒼前神社には農業の神・馬の守り神として男子騎馬像の蒼前様が祀られています。 ●稲作に向かないので、丘を焼いて粟(あわ)や稗(ひえ)を作り生き延びた。 しかし、明治政府は、 「八戸は青森県のほうへゆけ」といって、言葉も歴史も共有していない青森県に無理やり入れた。 戊辰戦争の時賊軍といわれたので小南部だけハサミで切り取って津軽に持っていき青森県を作った。 南部藩は賊軍だった。 という好悪の感情でもって、小南部八戸の地をうむをいわせず青森県へほうりこんでしまったのである。 ●明治政府がこんにちの都道府県をつくるとき、どの土地が官軍に属し、どの土地が佐幕もしくは日和見であったかということを 後世にわかるように烙印を押した。 その藩部(県庁所在地)の名称がそのまま県名になっている県が、官軍側である。 *薩摩藩・・・鹿児島市が鹿児島県 *長州藩・・・山口市が山口県 *土佐藩・・・高知市が高知県 *肥前佐賀藩・・・佐賀市が佐賀県。 の四県がその代表的なものである。 加賀百万石は日和見藩だったために金沢が城下であるのに金沢県とはならず石川という県内の小さな地名を探し出してこれを県名とした。 ■街道をゆく 北のまほろば (夏)■ ■街道をゆく:北のまほろば(冬)■ ■街道をゆく27因幡・伯耆のみち■ ■街道をゆく7:甲賀と伊賀のみち■ にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.04.15 00:14:15
コメント(0) | コメントを書く
[読書] カテゴリの最新記事
|
|