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カテゴリ:国内旅行
■2024.5.17(金)-3 その名は、遠く元禄時代、徳川光圀公が寺の庭を愛されて「保和園」と名づけたのが始まりといわれています。 その後、昭和初期には地元有志の手によって拡張整備され、池に築山を配した純日本庭園になり、 名前も「保和苑」に改められました。 ▲仁王門 桂岸寺は明治11年(1878年)に火災によって伽藍が焼失しました。 この仁王門や本堂、愛染堂などはその後に建てられたものです。 ▲本堂 屋根を支える2本の柱は水戸藩の家老、中山信正と孫の信行を示しているといわれます。 ▲鳳凰の飾りがあるが、これって場所的には「懸魚(げぎょ)」なんだけど、こんな懸魚はじめてみた。▼ その柱を支えているのは亀!ではなく龍です。 龍には9体の子どもがいて、そのうち1体は重いものに押しつぶされると気持ちよくなってしまうのだとか。。■保和苑■ 「梅」 おい そっと そっと しずかに 梅の匂ひだ 山村暮鳥 山村暮鳥は、群馬県生まれで亡くなったのが茨城県。 白梅や老子無心の旅に住む 金子兜太 金子兜太は、水戸中学出身。 歩いて行くと 池が出てきた。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ ■常盤共有墓地■ 徳川光圀公(水戸黄門)は寛文6(1666)年、水戸藩士のため上市に常磐共有墓地、下市に酒門共有墓地を創設しました。 その理由は、当時水戸藩の士民の喪祭が神仏まちまちで往々にして誤った習慣にとらわれ、無駄な費用に苦しめられているのを見て、これを正しく指導する必要を感じたためでした。 ことに藩士のためには、これら2ヶ所の墓地を無料で使用させるほか、「喪祭儀略」という書を作り、儒式を取り入れた簡素な喪祭の仕方を教え、墓碑も一定の形と大きさを定めて、ぜいたくに流されないようにしました。 このため藩士は後世までその恩恵に浴しました。 墓地内には、“水戸黄門”でおなじみの「格さん」のモデル、 安積澹泊をはじめとする彰考館の学者達、 後期水戸学の中心をなした藤田幽谷・東湖父子、豊田天功・茅根寒緑や、 桜田門外の変・坂下門外の変などに参加した烈士の墓が建ち並び、さながら水戸藩の歴史に接する思いを深める場所です。 ▲自然の形を利用した質素な墓が一番好きだ。 こういうお墓を見ていると、「長崎ぶらぶら節」を思い出す。 名前のない、●●の妻の墓。 平安時代の有名な歌人は、●●の母というように名前がないが、江戸時代も同じだな・・・。 幕末、水戸藩は尊王攘夷派の天狗(てんぐ)党と、佐幕派の諸生党に二分され藩内抗争を繰り返した。 墓の多さが当時の藩内抗争(内ゲ)の規模の大きさを物語る。 桜田門外の変・坂下門外の変などに参加した烈士の墓が建ち並び、さながら水戸藩の歴史に接する思いを深める場所です。 ●13292歩 そうだ関東いこう!(千葉県) ■5/13(月)■関空に泊まる。 ■5/14(火)千葉県・成田市■ 5/14(火)-2■印旛郡 房総のむら■ 5/15(水)■佐倉市・佐倉武家/順天堂他■ 5/15(水-2)■香取市佐原■ 5/16■牛久大仏/予科練平和記念館/筑波宇宙センター■ 5/17-1■水戸弘道館/水戸城/東照宮■ 5/17-2■水戸市・偕楽園■ にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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