九州旅倶楽部
その他78
福岡 FUKUOKA834
大分 OITA318
熊本 KUMAMOTO413
佐賀 SAGA236
長崎 NAGASAKI244
宮崎 MIYAZAKI95
鹿児島 KAGOSHIMA287
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松風園入園料:大人¥100-. 小人¥50-.駐車場利用料:¥300-.(1台)● 茶・和室などの利用料 ●和室 椿の間(8畳)午前¥2,400-. 午後¥3,000-.和室 楓の間(8畳)午前¥2,400-. 午後¥3,000-.松風庵(広間)午前¥3,000-. 午後¥3,600-.松風庵(小間)午前¥1,300-. 午後¥1,700-.野点広場 1日¥1,000-.茶道具 1点¥50-.
2007.12.28
邸宅内には昭和27年頃に著名な京都の数寄屋師、笛吹嘉一郎によって建てられた茶室があり、「松風庵」と呼ばれ、昭和54年に開催された日米市長会の公式接待にも利用されました。
昭和25年頃は、園内に松の大木が多数生育していたことから松風荘と呼ばれていました。庭には富士山にみたてた石や、石燈籠などもあります。
松風園所在地:福岡県福岡市中央区平尾3丁目松風園は、玉屋百貨店を経営した田中丸氏の邸宅跡の一部を都市緑地として整備したものです。昭和59年の日米市長会議に利用された著名な茶室「松風庵」や茶庭を有しています。
長崎街道 曲里のライトアップ天の川と蛍をイメージしたそうです。冬に天の川と蛍???ちょっと不思議な感じです。
黒崎 長崎街道 曲里のライトアップ12月は、日本中あちこちでライトアップやイルミネーションを楽しむことができます。年々華やかに豪華になっていく中で、ここのイルミネーションはとっても渋いです。人通りもほとんどなく、ちょっと淋しい感じですが、これもまた乙なものです。
福岡市立動植物園 ホオジロカンムリヅルホオジロカンムリヅルは、ウガンダの国鳥に指定されています。とっても華やかで綺麗なツルですね。
2007.11.21
福岡市立動植物園にて色黒のダチョウさんもいました。まつげが長くて目がぱっちりしていてかわいいです。でも、なんだか「くしゃおじさん」にも似ています。そういえば、くしゃおじさん、最近みかけませんね。若い人は知らないかも
福岡市立動植物園 ダチョウダチョウさんもユニークな顔ですね。
ひょうきんなキリンさん、とってもお茶目でしょ?動物も表情が面白いですね。今日は寒いので具沢山の豚汁とほっけの塩焼、柿と大根のなますですこれからの季節は汁物、鍋物が大活躍します。野菜いっぱいで体も温まるし、作り方も簡単今キッチンからいい香りがしてきています。只今主人の帰りをキリンのように首を長くしてまっていますいやはや、ラブラブって訳ではなくて、ただお腹がすいただけです
2007.11.20
ね、キリンさんの舌って長いでしょしかもかなり黒っぽくて、ちょっと気持ち悪かったですでも、目はとっても優しくて愛らしい目をしていました。キリンといえば麒麟の田村裕さんの「ホームレス中学生」すごい売れ行きで印税だけでも1億円の収入があるとかすごいです。億万長者です。一発大逆転です。ほんとうは悲惨な話なのに、それを笑いを含めて語るところがすごいです。「笑う」ってすごい。すごいエネルギーです。逞しく、しなやかで、明るく、優しい。ホームレス中学生
福岡市立動植物園のキリンキリンさんって、首も長いけど、舌も長いんですね。吃驚しました。黒っぽい舌で、よく伸びてよく動きます。草を美味しそうに食べていました。
アライグマここのアライグマは二足歩行はしないみたいだけど、よく二足で立っています。アライグマといえば思い出すのが「アライグマ ラスカル」あらいぐまラスカルテレビアニメ「あらいぐまラスカル」は、1977年にフジテレビ系の世界名作劇場で放送されました。今年は30周年ということで、再放送されている地域もあるそうです。ラスカルだいすき!あらいぐまラスカルのホームページあらいぐまラスカル 2008年カレンダー
2007.11.16
福岡市立動植物園のアライグマ軽井沢では、以前ペットして飼われていたアライグマが野生化して問題がおきているようです。安易にペットを飼い、人間の身勝手で捨てて、結局人間もアライグマも困る。ほんとうに困った図式です。
「ロンブーの怪傑トリックスター」10/19 19:00から放送予定の中で元祖長浜ラーメン 長浜将軍のラーメンが紹介される予定だそうです楽天でも販売しているこのラーメンは、自宅で手軽に作って食べることができる、博多長浜ラーメン、とんこつラーメンです。(新) 【送料無料】長浜ラーメン8食・焼豚「お試し」ここの焼豚美味しいです。香ばしくてジューシィー【送料無料】長浜ラーメン8食・からし高菜「お試し」からし高菜も美味しいです。ラーメンにとってもよく合います。【送料無料】博多長浜ラーメン10食焼豚・高菜セット大家族の方にはこちらが一番のお勧め。やっぱりとんこつには焼豚も高菜も両方入れたほうがいいです。そしてねぎの小口ぎりとゴマをトッピングしたら尚美味しいです博多にいかなくても自宅でおいしい長浜ラーメンを食べられます
2007.10.19
白蓮の直筆飯塚商店街 「伝ネムさんと白蓮さんの写真展」より白蓮さんの字、線が細く、繊細で個性的な字ですね。
2007.09.13
白蓮のかんざし「ひるの夢 あかつきの夢 夜の夢さめての夢に 命細りぬ」 白蓮細面で色白で華奢で知的で美人だった白蓮大変魅力的な方です。きっとこれらのかんざしもよく似合っていたでしょうね。
伝ネムさんと白蓮さんの写真展にて筑豊の炭鉱王と筑紫の女王と呼ばれた伊藤伝右衛門と柳原白蓮今も残る建物、調度品、衣服、装飾品などで当時の豪華な暮らしぶりを垣間見ることができます。
伊藤伝右衛門の服と伊藤家の紋2007/2/27 飯塚商店街「伝ネムさんと白蓮さんの写真展」にて撮影伊藤伝右衛門さん、なかなかおしゃれでダンディですね。
いぶき館の展示棟には実物の石炭も展示されています。実際に石炭をみたことがない方も増えているのかもしれません。「黒ダイヤ」と呼ばれた石炭。筑豊に、活気とエネルギーと好景気をもたらした炭鉱。しかし反面、石炭は地下の深部にある事が多く、そのため何kmにも及ぶ坑道を掘り採掘しなければならず、大変な作業で、事故なども発生しました。しかし、宝珠山炭鉱は宝珠山炭鉱は伊藤伝右衛門が経営していた間、落盤事故もなく、一人の死亡事故もない稀に見る保安優良炭鉱でした。設備、安全管理が徹底されていたのでしょう。
2007.09.12
大型シアター展示棟には大型シアターがあり、腰掛けてゆっくりと映像を楽しむことができます。修験をテーマとした「神々の棲む山」、宝珠山炭鉱の労働者の証言を元に構成した「力の山に分け入る人々」などの映像を、大型スクリーンで上映しています。迫力があり、色々と考えさせられました。そして大変勉強になりました。係の方がお茶を入れてくださり、おいしいお茶を頂きました。
いぶき館 展示棟展示棟では、宝珠山炭鉱の歴史と文化の紹介をしています。宝珠山村は、九州修験道の拠点英彦山と古くから関わりが深く、現在も伝えられている祭りや炭鉱の資料を展示しています。
いぶき館交流棟の廊下と伊藤家の紋が描かれた暖簾白蓮辞世の歌そこひなき 闇にかがやく 星のごと われの命を わがうちにみつ白蓮は、昭和36年(1961年)に緑内障で両眼失明しました。しかし龍介の介護のもとに昭和42年(1967年)に逝去するまで歌を詠み続けました。文筆活動で家計を支え、最後まで歌を読み続けた白蓮。白蓮の短歌には、情熱的で激しい恋心がたくさん詠まれています。そして一所懸命生き抜いた真摯な姿が映し出されています。恋をする。真剣にまっすぐに人を愛するっていいですね。でも、白蓮のように命がけの恋を貫き通すのはなかなか出来る事ではないですね。白蓮は自分に嘘を付くことができない。真っ直ぐで正直な人だったのでしょう。
2007.09.11
いぶき館交流棟1階ホールを2階から2007年の4月に行われました旧伊藤伝右衛門邸一般公開記念式典にて、伊藤伝右衛門と柳原白蓮のお孫さん同士が、「和解」の握手を交わしました。伊藤伝右衛門と白蓮が離婚してから実に86年振りのことです。色々なことがあったけど、それを乗り越えて、孫同士が握手するなんて、なんて素敵なことでしょう。伊藤伝右衛門も白蓮も潔く真っ直ぐな方だったと思います。きっとこの出来事をお二人も喜んでいらっしゃることでしょう。
いぶき館交流棟二階「恋しゅうて、なつかしゅうて、 悲しゅうて どうしたらよいやら、りうさま れん」宮崎龍介と恋に落ちた白蓮は、このような恋文を含め、手紙を700通も龍介に送ったそうです。「南無帰依仏 マカセマツリシヒトスジノ ココロトシレバ スクハセタマヘ」このような短歌も詠んでいます。姦通罪に対しての厳しい処罰があった時代、死を覚悟してまでも白蓮は龍介を愛して愛して止まなかったのでしょう。何もかも捨てて、愛する人のもとへ嫁ぎ、その後は龍介と添い遂げた白蓮は幸せだったのでしょう。どんなに貧乏でも、苦しくても、愛する人と一緒に暮らす、愛する人と共に生きる道を選んだ白蓮は愛の人ですね。自分の心に正直だったからこそ、今なお白蓮は人々に愛され、多くの人が魅力を感じるのでしょうね。本当に好きな人、本当に愛する人と共に生きる。何もかも投げ捨てて、その道を選び、生き抜いた白蓮は潔く、魅力的な女性です。人を好きになる、恋する、愛するというエネルギーは、強く、大きく、そして運命までも変えてしまうものなのかもしれません。
いぶき館には、チューリップの引き手以外にも色々な襖の引き手が展示されていました。襖の引き手や畳の縁などにも気を配る細やかさ、おしゃれですね。 ご無沙汰していました。楽天得子です。朝晩はずいぶん涼しくなりましたね。今朝は涼しくてとっても気持ちのいい爽やかな朝です。仕事がずっと忙しくて主人にブログをバトンタッチしていましたが、ぼちぼち復帰します。これからも二人で協力しながら日記を更新していきます。まだまだ一人前になれず半人前同士の夫婦で、二人でやっと一人前の二人ですが、今後ともどうぞよろしくお願いします。
2007.09.10
白蓮の部屋のチューリップの引き手いぶき館には、旧伊藤伝右衛門邸の2階の白蓮の部屋の襖に使われていたチューリップの引き手などが展示されていました。伊藤伝右衛門が白蓮を迎えるにあたって増改築した時に、各所に気を配ったのが伺えます。
いぶき館2階2階には柳原白蓮の写真が飾られていました。竹久夢二の描く女性像とぴったりで、線は細く、華奢ですが、芯があり、大変知的で魅力的な女性です。静寂の芯に燃える炎のような情熱を持った方というのが伺えます。
2007.09.09
いぶき館交流棟 畳の間 展示コーナー伊藤伝右衛門は、無口だけれど、誰に対しても公平で、礼儀正しく、優しい方だったと伝えられています。相手が子供であってもそれは同じで、3人の養子を迎え、お孫さん22人を分け隔てなく大変かわいがったそうです。
2007.09.08
いつも大変お世話になっています別府史談会理事の方から、「オペラ赤銅御殿の佳人 白蓮」のご案内を頂きましたので紹介します。 オペラ赤銅御殿の佳人 白蓮 林真理子原作「白蓮れんれん」より 日時:平成19年(2007年)9月30日(日) 13:00開場 14:00開演 場所:iichiko グランシアタ 第9回大分県県民芸術文化祭開幕行事 大分県民オペラ協会創立40周年記念公演 入場料:一般 ¥5,000-. 高校生以下 ¥3,000-. ※全席自由席 チケット取り扱い:トキハ開館・ムジカシラサワ・トキハ別府店 大分合同新聞社本社 お問合せ:大分県民オペラ協会 電話&FAX:097-532-5836・097-532-8872 お近くの方、ご興味のある方は是非お出掛け下さい。 オペラ『白蓮』ワークショップ -赤銅御殿と白蓮の物語- (別府温泉と柳原白蓮) 日時:平成19年(2007年)9月2日(日) 14:00~16:30 場所:大分県立生涯教育センター多目的ホール (別府野口原ビーコンプラザ前) 参加費:¥500-. <内 容> 1.講演 佐藤克明(音楽評論家) ・オペラの楽しみ方 ・オペラ『白蓮』の見所 2.講演 深町純亮(元飯塚市資料館館長) ・白蓮と白蓮を取りまく人々 3.オペラ 『白蓮』のは以来と ・大分県民オペラ協会 4.終了後 別府散策 赤銅御殿の歌碑 ※ワークショップに参加することによって、 オペラの内容がより身近に感じ解り易くなると思いますので、 お時間のご都合が合う方は是非ご参加下さい。
箱階段いぶき館交流棟の1階映像コーナーでは、「山村サロン文化の主役たち」をテーマーに、宝珠山村に炭鉱を開いた伊藤伝右衛門をはじめとした当時の経営者や、産業、社会、文化を伝える映像を上映している。石炭景気で活気あるその頃の暮らしや文化を見ることができる。
2007.09.07
いぶき館 中庭から昭和38年(1963年)、炭鉱は閉山。昭和44年(1969年)、炭鉱クラブは現在地に移築され、料理旅館 ほうしゅ山荘として営業開始。ほうしゅ山荘は平成12年(2000年)まで約30年間営業。平成16年(2004年)、旧ほうしゅ山荘の復元工事が完成。山村文化交流の郷 いぶき館として開館。 今、外は激しい雨が降っている。今日は全国的に雨の地域が多いようだ。今週は雨が続き、暑さも和らいできた。それにしても今年の夏は暑かった。
2007.08.31
いぶき館 伊藤伝右衛門の看板「炭鉱王 伊藤伝右衛門の足跡を今に残す」と書かれている。明治45年(1912年)に、伊藤伝右衛門は宝珠山村の炭鉱を買収し、本格的な炭鉱開発を始めた。明治45年(1912年)から昭和15年(1940年)まで経営した。その後の23年間は橋上鉱業(株)、日本炭業(株)が経営した。昭和38年(1963年)に炭鉱は閉山した。
2007.08.30
いぶき館交流棟いぶき館交流棟として復元されたこの建物は、元々は筑豊の炭鉱王 伊藤伝右衛門が、現在の飯塚市にあった邸宅の一部を宝珠山村紙屋に移築して、宝珠山炭鉱幹部社員の社交場「炭鉱クラブ」として使ったものと伝えられている。
2007.08.29
山村文化交流の郷 いぶき館住所:福岡県朝倉郡東峰村大字福井2296-1(旧宝珠山村)電話:0946-72-2232開館時間:10:00~17:00休館日:毎週火曜日と年末年始ただし、火曜日が祝日の場合は開館し、翌日が休館日
2007.08.28
白蓮に絶縁状を新聞掲載された伝右衛門は周りがなんと言おうと、「一旦は俺が惚れたおなご(女)じゃ。絶対に手出しは許さん」と言って周囲を押さえたそうだ。映画やドラマ、小説などで、伝右衛門を誤解した表現もある。夫婦も男も女も人間関係も他人には理解できないものが多々あるだろう。恋に生きた、才能あふれる白蓮も魅力的な人だが、伊藤伝右衛門も魅力的で潔い男だったと思う。いぶき館、旧伊藤伝右衛門邸、飯塚をかみさんと一緒に見学し、関係者、係の方から色々な説明をしていただき、資料なども頂いた。飯塚で伊藤伝右衛門と白蓮に纏わる資料を展示していらっしゃる有松さんに詳しい説明もしていただいた。その時かみさんが、有松さんに「伊藤伝右衛門さんって、潔くって男らしくって愛情溢れる素敵で魅力的な男性だったのですね。今まで誤解していました。伊藤伝右衛門さんってよか男ですね。」と言うと、有松さんは手をとって喜んでくださった。「そうなんよ。決して権力やお金だけでもの片付けようとした人でもなく、女性の社会進出、学業などにも大変な理解を示し、教育や地域社会、経済にも多大な貢献をした人よ。それをわかってくれたら、嬉しい。」とおっしゃった。僕は展示台の陰で小さくガッツポーズをした。かみさんは「白蓮さんも伝右衛門さんもどっちがいいとか悪いとかじゃなくて、組み合わせが悪かったんやね。そしてお互いの気持を上手に伝え合うことができなかったんやね。」「そしてやっぱり、夫婦でも男女でも人間関係でも一方的な情報で知ったつもりになったり、しったかぶったりしたらいけんね。お互いにはお互いの言い分や性分や状況やどうしようもない理由とか現実があるもんね。筑豊や炭鉱に関してもしらないことがいっぱいあるし、偏見でみとったんやね。勉強になった~。ありがとう。」と言った。誤解というよりは、情報不足故の認識違いというのはよくある。しかし、色々な方向からの情報を得ることによって、簡単に解ける誤解も少なくない。今回のいぶき館と旧伊藤伝右衛門邸の見学、飯塚散策によって、僕自身も認識を新たにした部分が多くある。旧伊藤伝右衛門邸の保存に尽力された方々、いぶき館の開館に尽力された方々、関係者の方々、詳しい説明をしてくださり、資料を下さった係の方々、飯塚の商店街で大変詳しい説明をしてくださった有松さん、飯塚市、東峰村の関係者の方々に感謝します。ありがとうございました。
2007.08.25
旧伊藤伝右衛門邸 庭園伝右衛門と白蓮の心は通じることなく、溝は深まる一方だったようだ。白蓮は歌の世界にますます没頭していく。そんな中、白蓮は運命の人 宮崎龍介に出会ってしまう。新聞に伝右衛門宛ての絶縁状を掲載した後、宮崎龍介と再婚し、生涯添い遂げた白蓮。感受性の強い女性だから、激しい恋をしたら止まらなかったのだろう。何もかも捨てても、世間を騒がしても、どんなに批判されようと、好きな人と一緒になりたいとう気持が強かったのだろう。潔くもあり、凄いパワーも感じる。
旧伊藤伝右衛門邸伝右衛門は白蓮より25歳年上だった。生れた環境、育った環境も違う。この二人がお互いを理解するのは難しかったのかもしれない。男の気持はなかなか女性に伝わらなかったりする。引き合いに出すのもおこがましいが、私達夫婦でさえ気持が伝わらなくて喧嘩をしたことがある。結婚前、結婚当初はよく喧嘩をした。そんなこといちいちいわなくてもわかるだろうとこっちが思っていても、かみさんは、「いわんとわからんちゃ。私は神様でも仏様でも占い師でもないんやから、ちゃんといってくれんとわからんちゃ。」とよくいっていた。そういえば、もう何年もこんなセリフを聞くことがない。概ね男は「いわんでもわかるやろう」「いちいちそんなこということじゃない」「言葉に出さなくても心で理解してくれ。」と思っている。しかし、女性は言葉でも伝えて欲しいようだ。年も環境もあまりにも違う伝右衛門と白蓮のギャップは想像以上に大きかったのだろう。
白蓮は、伝右衛門と結婚後、次々と和歌を発表。福岡や別府の赤銅御殿と呼ばれる別邸に白蓮を訪ねる文化人が次々と訪れ、交友を広めていった。和歌の才能と竹久夢二の絵から抜け出てきたような儚げな美しさを併せ持つ白蓮は、筑紫の女王と呼ばれるようになった。伝右衛門はそんな白蓮の才能に理解を示し、惜しみなく資金援助していった。大正4年(1915年)には、第1歌集「踏み絵」を出版、大正8年(1919年)には、詩集「几帳のかげ」と歌集「幻の華」、戯曲「指鬘外道」(しまんげどう)を刊行。「踏絵」「幻の華」「指鬘外道」は、すべて竹久夢二の装慎、絵入りだった。白蓮の才能はすごいと思う。しかし、伝右衛門の理解や援助の力も大きかったのではないだろうか。
2階に白蓮の部屋がある。3方に窓があり、風通しがよく涼しい。庭園もよくみえる。前室に火灯口(かとうぐち)とにじり口があり、食事やお茶などはそこから差し入れたという。部屋の中にはあまり人をいれなかったそうである。淋しく、苦悩に満ちた日々を過ごしていたのだろう。「金襴緞子の花嫁衣裳 花嫁御寮はなぜ泣くのだろう」という歌は白蓮がモデルになっているという説もある。金銭、物質的に恵まれても、虚しく、淋しく、孤独でやるせない日々を送っていったのかもしれない。ふすまの取っ手は愛らしいチューリップの形になっている。伊藤伝右衛門が白蓮のことを思い、気配りをしていたのが伺える。伝右衛門なりの愛情を注ぎ、気を配ったのだろう。しかし、白蓮にはその気持が上手く伝わらなかったのだろう。心が通じ合わない。それは一方だけではなく、双方苦しかったはずだ。
2007.08.24
旧伊藤伝右衛門邸 白蓮館旧伊藤商店事務所(一時は宝珠山炭鉱会社事務所)の由緒ある建物を活用し、柳原白蓮の生涯や歌人としての白蓮を紹介するギャラリー&ショップ館内には白蓮に纏わる品々が展示されていて、白蓮の声がカセットテープから流れていた。また、飯塚の特産物などの販売もしている。白蓮が伝右衛門宛てに書いた絶縁状の大阪新聞に掲載された全文と白蓮自身が書いた原文のコピーを¥20-.で販売していた。新聞掲載されている文面と白蓮自身の文面は些か違うものの、やはり何故新聞掲載しなければならなかったのかはどうしても理解しがたい。しかし、白蓮自身が書いた文面のままの方が、白蓮の苦悩や苛立ち、絶望感がが生々しく伝わってきた。
2007.08.23
旧伊藤伝右衛門邸 応接室を外から大正10年10月、大阪新聞に妻 あき子(白蓮)から夫 伊藤伝右衛門へ宛てた絶縁状が掲載された。大阪新聞に掲載された絶縁状と、白蓮の直筆の絶縁状は些か文面が違う。しかし、いずれにしても絶縁状を新聞に掲載するということが凡人の僕には理解不能である。弁護士に依頼するとか、他に方法がなかったのだろうか。どちらがいいとか悪いとかではなく、なぜもっと他の方法で解決する方法はなかったのか。
2007.08.22
旧伊藤伝右衛門邸「筑豊」、「北九州」、と聞いてどんなイメージがわくのだろうか?かなり以前、大分出身のかみさんに聞いてみると「青春の門」、「気性が激しい」、「気が荒い」、「川筋男」、「炭鉱」、「石炭」と答えた。青春の門のイメージがかなり強かったようだ。伊藤伝右衛門が大分県別府に赤銅御殿(あかがねごてん)を建てていた様に、大分と筑豊、北九州の関係は意外と深い。石炭景気の頃は筑豊・北九州から多くの人が観光、行楽に別府へ行っていた。 少しご無沙汰しておりました。楽しみだった夏休みもあっという間に終わり、次は9月の連休を待つばかり。中断していた伊藤伝右衛門の紹介をぼちぼちとしていきます。拙い写真と文章ですが、よろしくお願いします。夏の疲れが出る頃です。くれぐれもご自愛の程祈ります。
2007.08.21
白蓮れんれん著者:林 真理子明治・大正・昭和30の「真実」遙かなる人間風景京の恋歌近代の彩著者:松本章男上立売の家―柳原白蓮 の項目に記載夫と妻のきずな(上巻)著者:中島 力宮崎竜介・歌人・柳原白蓮―歌人白蓮の波瀾な生涯 の項目に記載名作にみる愛の絆
2007.08.10
歴史遺産日本の洋館(第2巻(明治篇 2))「伊藤伝右衛門邸―筑豊の石炭王と筑紫の女王の屋敷」という項目で紹介されています。
旧伊藤伝右衛門邸 居間伊藤伝右衛門は、白蓮と離婚後は再婚することなく、現在の中間市の大正鉱業を本拠地として、十七銀行の経営、嘉穂銀行の二代目頭取に就任、戦時中の銀行統合による現福岡銀行の発足に貢献するなど地元政財界の重鎮としての活動を続けた。昭和22年12月 伊藤伝右衛門逝去 享年87歳伊藤伝右衛門の墓所は、かつての幸袋製作所跡地を見下ろす高台ににある。現在の旧伊藤伝右衛門邸駐車場に行く途中にみえる。
旧伊藤伝右衛門邸伊藤伝右衛門は明治21年 ハルと結婚。明治43年 妻 ハル逝去。明治44年 柳原 あき子(白蓮)と再婚※伊藤伝右衛門52歳、白蓮27歳だった。※あきこの「あき」は、「火」偏に「華」という字、しかし機種依存文字の為表示不可。大正10年10月21日 大阪朝日新聞に白蓮が伊藤伝衛門宛ての「絶縁状」を掲載する。大正11年1月 両家の協議が行われ、白蓮を伊藤家から離籍することを決定。
旧伊藤伝右衛門邸宝珠山炭鉱は伊藤伝右衛門が経営していた間、落盤事故もなく、一人の死亡事故もない稀に見る保安優良炭鉱だった。
旧伊藤伝右衛門邸 庭園伊藤伝右衛門は、宝珠山炭鉱では、日本一と言われた炭鉱住宅を整備し、山紫水明の清流を洗炭汚水によって汚濁しないようにと浄化装置を設置した。人間味あふれ、炭鉱の人々はもとより、地元の人々にも慕われ尊敬された。
2007.08.09
旧伊藤伝右衛門邸 庭を眺める伊藤伝右衛門は、嘉穂銀行や十七銀行の取締役、幸袋工作所の創業者として、地元の産業・経済の発展に尽力し、衆議院議員に当選してからは、遠賀川の改修工事を実現するなど、地元の産業・経済にも尽力した。