尚古集成館
尚古集成館集成館時代の鋳物場跡に建てられた、企画展を開催する建物です。― 日本初の工場群 ―国指定史跡 集成館跡 仙巌園入口から尚古集成館・駐車場にかけての一帯は、幕末、薩摩藩主島津斉彬が築いた工場群「集成館(しゅうせいかん)」の跡地で、国の史跡文化財に指定されています。機械工場(現尚古集成館本館・重要文化財)や反射炉跡、工場の動力用水路跡が現存し、さらに地中には多くの遺構・遺物が眠っています。 斉彬は、植民地化政策を進める西欧列強のアジア進出に強い危機感を抱いていました。日本が植民地にされないためには、日本を西欧諸国のような強く豊かな国に生まれ変わらせなければならいと考え、嘉永4年(1851年)薩摩藩主に就任すると、「集成館事業」という富国強兵殖産興業政策を推進しました。「集成館」はその中核となった工場群の総称で、鉄製砲を鋳造する反射炉、反射炉に鉄を供給する溶鉱炉、砲身を穿つ(うがつ)さん開台(さんかんだい)、蒸気機関の研究所、ガラス工場などがあり、最盛期には1,200名もの人が働いていました。 安政5年(1858年)斉彬が急死すると、集成館は大幅に縮小され、文久3年(1863年)の薩英戦争でイギリス艦隊の攻撃を受け焼失しました。しかし、斉彬の弟久光と久光の長男で家督を継承した忠義の手で繻子栄冠は復興されました。尚古集成館本館はこの時建てられた機会工場です。集成館事業により、薩摩藩は日本最高水準の技術力・工業力を持つにいたり、明治維新ではその威力が発揮されました。 明治4年(1871年)、集成館は官有となりました。明治10年、私学校徒がここを襲撃して西南戦争が勃発、政府軍がすぐに奪還し、再奪還を図る西郷軍と攻防戦を繰り広げたため、多くの工場が焼失し荒廃しました。戦後、民間に払い下げられましたが振るわず、大正4年(1915年)廃止されてしまいました。大正8年、機械工場は改装され、大正12年島津家の歴史資料館「尚古集成館」がオープンしました。(以上現地案内板より)