「ゾンビを考える」
仕事上で知り合った、ベテラン仕事人は、「俺が、映画撮るなら、ホラー映画を撮りたい」と、のたまう。え!何故にホラー?根が臆病者なわたしは、ホラーなど制作したら、呪われそうで、怖いからやだし、シャイニングのおじさんのように、自らが、殺人鬼と化しそうなので、それだけは、御免蒙りたい。しかし、昔から、新人映画監督の登竜門は、ホラーか、ガンアクションと、相場が決まっている。どちらも「衝撃」に関しての、演出力が露わになるからだ。わたしはどちらかというと、日本映画が好きだ、というと、「お洒落な空気が漂うだけの、何も起こらない、今時の日本映画は嫌いだ」と、のたまう。おお!歯に衣着せぬ!確かに、そうだろう。何も、起こらず、空気映像だけ、見てるなんて、意味不明な、短歌以下だ。しかし、けっこう、わたしは、そういうのが、好きだったりするのだが、何も残らず、さらりと、流れるだけより、そんな、空気感を持ちつつ、雪原を歩く狐の足を容赦なく、食いちぎる、銀色の歯を持った鋼の罠のような映画が、好きなのだが。。。きっと、人が静かに殺される映画が、わたしは好きなのだ。「どうせ撮るなら、ゾンビ映画が、撮りたい!」事もあろうに、ゾンビですか!いきなり、剛速球だ!どうやら、ゾンビ映画とは、ただのホラーではなく、腐った死体から、逃れるだけの、単純なお話ではないようで、その時々の時代性を映し出してきた名器のようなのだ。死体が、腐ってるのに、生き返って、しかも、人を襲う。怖いというより、汚い。そんなぶっ飛んだ、設定の映画群に、時代性や、事件性が、知るや、知らずや、注入されていただなんて!かっこええ。わたしが見たことのある、ゾンビ映画は、「死霊のはらわた2」くらいだ。しかし、あれは、面白かった。中学生のときに、地方の映画館の同時上映で見て、メインより、面白かった。しかし、ガキには、とっても、怖かった。しかも、お客は、4,5人しかいない。山奥の廃屋で、カップルが泊り込み、さぁ、じゃんじゃんやろうぜ!となっていたのが、女が、死霊に殺され、ゾンビになって、肉をぼろぼろこぼしながら、陽気に踊るのだ。怖い、怖すぎる。そして、主人公の、桁外れの、驚きように、わたしの恐怖も、うなぎ昇る。だが、この映画ののいいところは、恐怖の絶頂を突き抜けた男が、死霊以上の狂気を漲らせて、失った左手に、チェーンソーを、くくりつけ、ショットガン片手に、死霊に反撃を食らわせるところだ。死霊も怖いが、この男の、シャイニング以上な、狂気な目のほうが怖い。そして、ラストは、意味不明な世界にワープして、泣き叫んで終わる。なんて、シュールなんだ。なんて、自由なんだ。サム・ライミ。「あれは、名作だね。俺も好きだよ。しかも、3は、その意味不明な世界で、ゾンビ軍団と闘うんだ」そこまでしていいのか。時代を飛んでしまってもいいのか。わたしは、「死霊のはらわた3」を借りてみた。正直、怖くなかった。こてこての、脂身たっぷり、成人病など、意にも介さぬ、怒涛の「何でもあり」が、精液吐きそうなくらい快感だ。(ぶっちゃけ、もろB級で、駄作だけど)「ゾンビ」とはなんだろう。「ゾンビ」の原点的映画を、いろいろ、漁りたい、と思った今日この頃。映画は、もっと、ディズニーランドで、いいのかもしれない。