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テーマ:絵が好きな人!?(4302)
カテゴリ:超硬派
その絵の前はガランとしていた。
穴があいたみたいに。 人気のない絵だったのだ。 僕だけが、立ち止まっていた。 真ん中にいるポケーっとしただけの女性が浮いている。 そして、その周囲には幼い子供の天使がいる。 じっくりみると、雲の形のように子供の顔もある。 ドラマティックな絵画が続いた後に、柔らかい温度が その周囲にはある。 立っている僕も、足元から暖かくなってくる気分である。 無理して生きなくてもいいんだって、予感に僕は 包まれる。 名前は「6人の人物の前に現れる無原罪の聖母」 画家はバルトロメ・エステバン・ムリーリョ。 17世紀のスペインの画家である。 * 美術館に入場するまでに90分かかった。 それだけ、列が長かったのだ。 京都市美術館で開催されている 「ルーヴル美術館展 17世紀ヨーロッパ絵画」に 行ってきた。 前から行きたかったけど、時間の都合が取れず 開催終了直前の今日に行った。 時間の都合、そう、嘘じゃない。 実は僕「ルーブル展」と銘打っている展示会は あまり好きではないのだ。 「ルーヴル展(もしくは、ルーブル展)」は名前だけで 人がくるので、展示会としてできがいいとは思えないのだ。 大抵は、2、3枚有名な絵を持ってきて、他はルーヴルの 倉庫に眠っているような絵画でお茶を濁してしまうのだ。 だから、時代背景とかもバラバラだし、統一性がない。 有名な2、3枚を覗いては、絵として、感動を受けることは 少ない。 でも、人は異常に多い。 なにしろ「ルーヴル」なのだから。 今回は私の大好きなフェルメールもきているし、ベラスケスも あるし、いきたいなぁって思った。 * 90分、待ったのはしんどかったけど、展示会は なかなか、よかった。 ただ、予想通り、目玉の絵とそれ以外の絵の差は 大きかった。 目玉のフェルメールの絵は小さかったけど布の雰囲気とかは 流石だった。 ベラスケスとその工房の絵は荒いタッチを繊細に積み上げ、抜群の 技量を示していた。 ムリーリョに心を惹かれたのは予想外だった。 恥ずかしながら、展示されているのを知らなかったのだ。 あったのか、という驚きをもって、その絵を眺めた。 彼のこの絵画には愛してあげたくなる何かが、あるような そんな気がしていた。 * バルトロメ・エステバン・ムリーリョという名前は相当絵画に 詳しくないと知らないはずだ。 つまりは、人気がないのだ。 僕もNHKの「プラド美術館」をたまたま見なければ、 知りもしなかっただろう。 大きな理由は、彼以外に中世スペインには有名な 大家がいるからだろう。 中世のスペインで重要な画家を三名挙げろと質問を100人にしたら、 100人答えは同じはずだ。 ベラスケス、ゴヤ、そして、エル・グレコだ。 ベラスケスは、描くことへの技量の高さで、 ゴヤは、描く対象の主題の明暗の幅の大きさにおいて、 エル・グレコは、描く対象への形の強弱のつけ方において、 美術史そのものに影響を持っている。 この3人の印象が強く、ムリーリョはかすんでしまっている。 もう一度、ここを「プラド美術館」みて欲しい。 ベラスケス、ゴヤ、エルグレコは、それぞれ一回放送の割り当てなのに、 ムリーリョか、スルバランは二人で一回放送の割り当てである。 残念ながら、それが事実である。 * もし、あなたがここまで読んで、ムリーリョに興味を持ってもって 彼の絵を見ていたとしよう。 きっと、こう思うのではないだろうか。 なんじゃこりゃ? 聖母がどこに視線があるか、わからずにーボーっと しているだけじゃないか。 めちゃくちゃ、ばかっぽいじゃないか、と。 しかも、背景もぼけーっとしていて、メリハリがないって。 確かに、それは否定できない。 受胎告知(天使からキリスト妊娠を告げられた場面)や ピエタ(十字架からおろされたキリストを抱きかかえる場面)の マリアは凛々しい。 神々しささえあり、近寄りがたき気高さだ。 ドラマチックであり、美しい。 僕は、そんな受胎告知や、ピエタの絵も好きだ。 でも、なぜだろう。 時々、飽きてくるのだ。 その絵の中のマリアは天使に一礼をし、あるいは亡くなって しまったキリストを見つめているだけなのだ。 ふーん、という感じになってしまう。 * やがて、僕は実物のムリーリョの「無原罪の聖母」の前に 立つ。 右に二歩くらい、左に二歩くらい、ずれてみる。 どこに動いても、その無原罪の聖母は僕を見つめている ように思う。 しかも、睨み付けるような鋭さではない。 僕の後ろの人に視線を合わせ、でも、僕から目を そらしていない。 間違いなく、守られている、そんな人間としての 暖かさがムリーリョの聖母にはある。 だからだろうか。 聖母の周囲に描かれている天使達の表情には無理がない。 にこやかである天使、はにかむような天使、ちょっと 考え事をしているような天使・・・。 柔らかく、無理をせず、ナチュラルにそこにいる。 教義に縛られた宗教画というより、人が日常に欲している 家庭の温度がそこには感じられる。 きっと、それこそが、人間に必要なことではないだろうか。 絵画として、ムリーリョは実物と、印刷物などとの差が 出やすい画家なのかもしれない。 (予断だが、クリムトは実物と印刷物の差がもっとも激しい 画家だと思う) * 実際、ムリーリョは宗教画だけではなく、貴族ではない庶民を 描いた作品にも傑作が多い。 その瞬間や、表情はなにげないけれども、とても大切なものを 気づかせてくれる。 僕はムリーリョの絵をいくつか見たけれども、いつも同じような 暖かさを感じる。 作品の出来、不出来の差も少ない。 優れた技量も持っている。 悪い言い方をすると、ワンパターンだ。 * さて。 ここまで読まれて、あなたは思うかもしれない。 ムリーリョという画家は家庭に恵まれた画家だったのではないかと。 例えば、ルノアールが妻や、子供らとの日常の暮らしの中から あのような柔らかい絵を生み出したのと同じように。 でも、実は、違う。 ムリーリョは幼くして両親を無くし、6人いた子供のうち、5人は ペストで幼くして亡くしている。 生き残った1人も耳が聞こえなかったという。 だから、ムリーリョが自らの絵に描いた大切なものは現実に 彼が見て感じたものではない。 きっと、手に入れられなかったからこそ、心で強く望み、 筆を通じてしか描けなかったものなのだ。 * 画家の人生と絵画を結びつけるのは、安直であり 危険であるは、わかっている。 ただ、僕はムリーリョの一連の「無原罪の聖母」の優しさには 彼の祈りが込められていると思う。 本当は、彼の目の前に、存在して欲しい、授けて欲しいという 祈りが。 その祈りが、柔らかい筆致をもつ技量と交じり合った時、凡百の 宗教画を超えた作品を生み出したのではないだろうか。 彼にとっては絵を描くことが神や不条理と向き合う宗教行為 そのものであったのかもしれない。 その祈りが強すぎたため、温かみしか描くことが、 特に晩年の彼にはできなかったのではないだろうか。 同じもの、同じことしか、描けない。 きっと、ムリーリョに関しては、このような厳しい言い方も できるのだろう。 それが、明と暗、どちらもきっちりと見つめ、快楽に酔いしれ さらには、狂気の近くまで降りていったゴヤとの大きな差 なのかもしれない。 ベラスケスや、エルグレコを超えられなかった理由でもあるのでは ないだろうか? * にもかかわらず、ムリーリョは素晴らしい画家である。 時の洗礼を経てなお、ここに彼の名前が残っている。 なぜなら、彼が祈った世界は絵を通じ、時間と場所を越えて、 僕たちに残っている。 少なくとも、僕には。 彼の希求し、強く祈りをこめた何かの温もりは僕らも 常に望んでいて愛しているものなのだ。 ※もっと、「なんだかなー」なら『目次・◎ものがたり』まで お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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