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カテゴリ:いじめ
いじめの大きな原因の1つに、傍観者の存在がある。
『いじめを見ているだけでも、 いじめてるのと同じくらいの罪がある。 つまり、傍観者は、いじめっ子と同じくらい悪い』 と、言っている人がよくいる。 まず、どこからが傍観者なのか? いじめられてる子を助けてあげられず、 見て見ぬフリをしてしまったら、もう傍観者。 いじめられてる子を避けたら、もう、いじめっ子。 手を出したり、口を出すと言う、 単純ないじめもあるけれど、 中には、集団で一人を無視したり、 距離を置いたりするいじめもある。 そんなことをしてしまったら、もう傍観者では済まない。 社会では、そういう子を傍観者として済ませているが、 それは、もう立派ないじめっ子である。 つまり、皆が傍観者として見ている人は、「いじめっ子」。 皆が部外者として見ている人は、実は「傍観者」なのだ。 「いじめっ子」は、いじめっ子とはもちろん違う。 傍観者という名を気取った、いじめっ子だからだ。 そういう奴らは、もちろん卑怯だ。 何か問題が起きた時に、 攻められるのはいじめっ子ばっかりで、 「いじめっ子」つまり傍観者は、罪を逃れる。 「私は見ていただけです」と言って。 では何故、「いじめっ子」(傍観者)は生まれてしまうのか。 彼らの心の中にあるのは、 「いじめっ子に加担しなければ、 今度は自分がいじめられてしまう」という考えだ。 もはや現代の子供達には、正義心などない。 あるのは、自分が愛しいエゴだけだ。 それほどいじめられてる人を嫌だとは思ってないけれど、 いじめられてる人をのけ者にして、無視しなければ、 今度は自分がのけ者にされてしまう。 昨日まで仲がよかった人が、 今度は自分を冷たい目で見るようになる。 そんな恐怖から、逃げ出したいためだ。 そう。ここに、現代の学校の姿がある。 現代の社会の姿がある。 友情なんて薄っぺらい。 結局は皆、自分が大事。 「友情」なんてカッコつけるけれど、 最後は自分で自分を守らなければならない。 そういうストレス。 そうして、他人との関係を薄いものにしようとする、 寂しい現代人がいる。 子供だけじゃない。大人もそうだ。 昔は近所の人でさえ、いじめっ子を怒ったらしい。 今じゃ親でさえ、自分の子がいじめられるのを、 放っておくことがあるのだ。 別に、古き良き時代に帰れ。昭和に帰れ。 そういうことを言ってるわけじゃない。 だけど、現代の人々は、 どこか心を失っているような気がする。 人間の特権である心を、捨ててしまっている気がする。 大人のやっていることは、子供にも反映する。 親友は、「どんな時でも助け合う人」から、 「ただ仲がいい人」に変わりつつある。 そんなことが、俺は本当に寂しい。 今日味方だった人は、明日は敵に変わっている。 そんな薄っぺらい関係を現代人は、 「友情」と呼んでいる。 そんな情けない世の中から、 いじめがなくならないのも無理はない。 いじめをなくすためには、社会が変わっていかねば。 俺は、出来る限りそれを実行していきたい。 『つまり、親友も、自分をかばってはくれない。 ただ親友は、昨日までの笑顔が嘘だったかのように、 冷ややかな目で見てきて、 「傍観者」、あるいは、「いじめっ子」に変貌する。』 そんな友達を信用できなくなって、 人間を信用できなくなって、 ある人は生きる希望を失くして、 自ら命を絶つんだろう。 それでも世界は、冷ややかに動く。 そして、自分の命を絶つことの無意味さを思い知り、 ある人は、そう、人々は他人と距離を作っていく。 この社会が冷たい、コンクリートである限り。 そして、俺も。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.12.19 16:35:13
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