テーマ:韓国!(17292)
カテゴリ:在日関連
《日本に帰化しているのに「孫社長」?》 ソフトバンクの孫正義社長さんといえば、いろいろな意味で日本のIT業界に旋風を巻き起こした先駆者です。在日の方ですので中学までは「安本正義」という日本名を使用しておられましたが、これはあくまでも「通称名」であって、安本姓で帰化していたわけではありません。 だから、高校(久留米付属高)を中退されてアメリカに留学した時もパスポートの本名は「孫正義」の名前で、その下にカッコで「通称・安本正義」と書いていたとのことです。アメリカでは、ずっと「孫」の本名で通されました。 さて、1980年にアメリカのバークレー校を卒業され、翌1981年に日本で「日本ソフトバンク」を設立しました。そして、いよいよ孫社長が日本国籍を取得しようとしたのだけれども、これが簡単じゃなかったのです。 なぜかというと、「孫」という“韓国名”では日本国籍は取得できないといって役所が受け付けないわけです。つまり、「孫」という名前の日本人が存在すれば受け付けるのだけれども、日本人で「孫」という人はいないのでダメということ。。。 孫さんは、「アメリカではどんな名前でも国籍を取れるのに、日本はどうして“日本名”でなければいけないのか」という不満があったそうです。 その後、日本人である奥さんが裁判所に行って「孫という韓国名に変更してほしい」という申請をしました。これは、ものすごくめずらしい事例なので裁判所は何度も念を押して確認した上で、奥さんの名前を“夫”の名である「孫」に変更しました。ちなみに、日本人で韓国名に変更した例はほとんどないそうです。 さて、ここからが面白い。。。 再び、孫正義さんが日本国籍を取得するために役所に出向いて行きました。そして、「日本国籍を取りたいけど、孫という韓国名をそのまま名乗りたい」と堂々と主張しました。「孫という名前の日本人が存在しないからダメ」という役所の見解に対しては、「いや、帳簿をみて調べてくれ。一人だけいるはずだ」と。すると一人だけいました。奥さんでした。(笑) 《「帰化」とは一体なんでしょう?》 このようにして、晴れて孫社長は日本に帰化されたわけですが、いわば孫社長は日本の役所に対して「孫」という韓国姓のまま日本国籍の取得を“認めさせた”と言うべきものであって、従来の「帰化する」というイメージからは遠い感じがします。 それと同時に、一体「帰化する」とはどういうことなのかと、しばし考えさせられるエピソードだと思います。日本の役所の形式主義的な面はいまさら指摘するまでもありませんが、既に「朴」はパク、「崔」はチェ、「金」はキム、「盧武鉉」はノムヒョンと読む時代になり、「孫社長」を「まご社長」と読む人もいないわけですから、そろそろお隣の韓国・朝鮮人の方が帰化する際の氏名についても、次第に融和政策の方針を検討してもいい時代になっているのかもしれません。 2003.8.23江本武忠 (参考文献) 清水高著「インターネットの超新星・孫正義」財界研究所、1999 【発行・編集】 ケン・ハービー事務所 1、「試験官!」 孫正義は、アメリカの大学検定試験の会場で、突然、手を上げて発言を求めた。 「私は、日本人なので、英語がよくわかりません。しかし、英語さえわかれば、問題は解くことができる。だから辞書を使うことを認めてほしい。それと、辞書を使う分時間が余分にかかるので、時間も延長してほしい」 なんとも、常識では考えられない行動に出たものである。そして、教育委員長と直談判し、認めさせてしまった。 この話は、自分の主張に正当性があれば貫き通すという、孫正義の性格を表すエピソードとして、よく知られている。 そんな孫正義であるが、子供の頃は、在日韓国人ということで,哀しい思いをしばしば受ける日々を過ごしている。 高校時代のアメリカ留学は、そういった意味でも、孫を大きく変えることになった。日本へ帰国後は、国籍のコンプレックスを吹っ切って、日本名の「安本」を捨て「孫正義」と名乗るようになった。 2、ビルゲイツを含む、デジタル情報革命で活躍している人たちには、共通の出会いがある。 それは、インテルが発売した8080と呼ばれるマイクロプロセッサーだ。孫は、その写真を、いつも鞄に入れて持ち歩いていた。 ある日、アイデアを思いついた孫は大学の教授と共に開発に掛かり、ついに音声付きの電子翻訳機を完成させた。 そして、それを持って日本の企業へ売り込んだのである。 その売り込み方法にも、孫らしさが伺える。企業を回っても思ったように反応が返ってこない。本命であったシャープでさへも、発想の面白さには関心を持ってもらえたが、契約には至らなかった。 「トップと直接話しがしたい」 そう考えた孫は、以前シャープの弁理士だった男を見つけ出し、当時、電卓の大御所と評された、佐々木専務なる人物と面会することができた。 佐々木は孫に聞いた。 「もしシャープが契約をしたら、契約金は何に使うのですか」 孫は答えた。 「スタッフに分配し、残りは会社の経費に使います」 佐々木には、大学生が会社を経営し、お金を会社の発展の経費に当てるという考えが、とても新鮮だった。そして、結局、孫と契約することになる。 やがて、世界に先駆け、ポータブル翻訳機「IQ3000」が発売され、孫は1億数千万円を手にいれることになった。 3、1981年9月、日本ソフトバンクを設立。 当時、本格的な卸業者がなかったパソコン・ソフトウェアの流通業を目指した。早速、エレクトロニクスショーでブースを借りて出店し、成功を収める。 孫の噂を聞きつけて、上新電機の社長が事務所にやってきた。事務所の扉を開けた瞬間、その社長は愕然とした。なんと、机が2つ並んでいるだけだったのだ。それに、社長はといえば、ひとつ間違えば、学生に見えた。 しかし、孫は、情熱だけは誰にも負けないと説得し、ついに独占契約を取り付けることに成功する。 また、ソフト製作会社であるハドソンとの独占販売権も手にいれた。やがて、評判は口コミで広がり、事業は雪だるま式に拡大していった。創業2年目には、販売加盟店が4600店舗を突破。業界トップの座についた。 そんな絶好調の波に乗っていた孫に、病が忍び寄る。 4、健康診断で肝炎と診断された孫は、入院生活を送ることとなった。 入院生活中、孫は徹底的に本を読んだ。あらゆるジャンルの本を読み、結局、3年半の入院の間に読んだ本は4000冊を超えた。 1996年、インターネット事業への本格的参加を目指し、アメリカのヤフーへ35%の出資参加を果たす。続いて、ヤフー・ジャパンを、97年秋に株式公開させた。 当時「YAHOO!」はヤッホーと読まれるくらい無名の存在だった。 と言うよりも、インターネット自体が、まだあまり知られていなかった。 一連の出資に対しアナリスト達は、単なる「バブル男」と揶揄していたが、99年に入ると、ネットブームが起こり、日本のヤフー株は急騰する。 その頃、ビル・ゲイツは、来るべきインターネットの時代に対し、ブラウザソフトを押さえる事が鍵だと考えていた。 そして「インターネットエクスプローラー」で、勝負を賭けた。結果は、「ネットスケープ」に大きく水をあけ、圧勝だった。 しかし、世界を制覇したビルゲイツでも、ソフトの世界では、孫に出遅れたのだった。 今日まで日まで、孫は日本経済にさまざまな影響を与えてきた。 例えば、日本では常識であった「メインバンク制」から「コアバンク制」への切り替えを果たした。これには、最近、テレビを賑わしてた北尾吉孝氏が推進役となった。 野村證券からスカウトされ、ソフトバンクに入社した北尾氏だが、銀行と全面対決し、グローバル化の流れにも乗り、ソフトバンクを銀行の束縛から解放させたのだった。 また、孫は社内改革として、決算を毎日行なう「日次決算」や「電子稟議」などを取り入れた。特に、日次決算では独自のソフトを開発した。 本来、ソフトバンクは、ソフトを販売する会社であり、何万ものソフトを販売しているが、このソフトだけは決して販売しないという。 これからの孫は、どのように変貌していくのだろうか。ドッグイヤーと言われるように、環境変化の激しい時代である。10年後の孫正義は、まだビジネス界の主役を続けているだろうか。 税込価格 : \1,050 (本体 : \1,000)井上 篤夫著出版 : 実業之日本社 発行年月 : 2005.10 志高く 孫正義正伝 (単行本) 井上 篤夫 (著) 出版社: 実業之日本社 (2004/05) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia) 孫 正義(そん まさよし、1957年8月11日 - )日本の実業家。 略歴 1957年 佐賀県鳥栖市に在日韓国人3世として誕生。4人兄弟の次男で通称名は安本正義。 1973年 久留米大学附設高等学校に入学。 1974年 久留米大学附設高等学校を中退し、米国セラモンテ高等学校(サンフランシスコ)に編入。 1975年 米国ホーリーネームズ大学に入学。 1977年 カリフォルニア大学バークレー校経済学部に編入。 1979年 自動翻訳機の売込みで得た資金を元手に、米国でソフトウェア開発会社の「Unison World」を設立。 1980年 カリフォルニア大学バークレー校を卒業。学位は、経済学士(カリフォルニア大学)。日本へ帰国後、福岡市にコンピュータ卸売事業の「ユニソン・ワールド」を設立。 1981年 福岡県大野城市に「日本ソフトバンク」を設立。 1983年 慢性肝炎で入院。社長職を退き会長となる。 1986年 社長職に復帰。 1991年 孫正義の名で日本人に帰化。 1994年 ソフトバンク株式会社の株式を店頭公開。 1996年 米ヤフーとソフトバンクの合弁でヤフー株式会社を設立。 1996年 オーストラリアのメディア王ルパート・マードックのニューズ・コーポレーションと折半出資の合弁会社を設立し、テレビ朝日の株式の21%を取得。後に朝日新聞の反発に遭って撤退。 2001年 ヤフー株式会社と共同でADSL接続サービスのYahoo!BBの提供を開始。以降、それまでのPCソフト卸、PC出版から通信に本業の軸足を移す。 2004年 日本テレコム株式会社(現ソフトバンクテレコム株式会社)を買収し、同社代表取締役会長に就任(2006年10月に同社代表取締役社長に就任。)。 2006年 ボーダフォン株式会社(現ソフトバンクモバイル株式会社)を買収し、同社代表執行役社長兼CEOに就任。 逸話 家系 もともと孫家は中国の武家(将軍家)であり、22代前に韓国に亡命してきたと本人が語っている。(『文藝春秋』1999年11月号) 人生の目標 19歳の時に、「20代で名乗りを上げ、30代で軍資金を最低で1,000億円貯め、40代でひと勝負し、50代で事業を完成させ、60代で事業を後継者に引き継ぐ。」という人生50年計画を立て、今もその計画の実現に向けて走り続けているという。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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