テーマ:たわごと(26901)
カテゴリ:在日関連
統一コリアのチャンピオン=ボクサー洪 昌守:ホンチャンス(徳山昌守)の闘い 洪 昌守・ホンチャンス(徳山昌守)は、One Koreaと縫い取りをしたトランクスを着け、朝鮮半島をあしらった「統一旗」を持ってリングにあがるチャンピオン。在日コリアンの悲願「祖国統一」を、ボクサーとして拳で表現している証です。彼はどのようにして、WBC世界スーパー・フライ級チャンピオンの座についたのか。同じ在日として少し、書いて見ました。 彼がデビューする前、近くの焼肉店で働くアルバイトの青年が「兄さん、今度、4回戦にデビューします。絶対世界チャンピオンになるから応援してください。」こんな話を7年前のある日、髪を茶髪に染め、人懐っこい顔をして話しかけてきたのが、後のチャンピオン、ホンチャンスでした。 「頑張りや!」と言いながら、店を出るなり「あんな髪の毛染めて甘いな~l」と仲間内で話していたのを覚えています。 でも、大阪城公園でトレーニングに励む姿を良く見かけます。 気軽に「ホンチャンス~」と声をかけると手を振ってくれます。一緒に撮った写真が何枚かありますが、私の顔が映ってるので・・・。笑 まず、彼は洪昌守(ホンチャンス)の本名でリング登録し、その名前での放映を望んでいますが、通名の徳山でないと試合も組まない、TV放映も出版も出来ないと言う制約があります。この事実を知ってって欲しいと思います。 私がブログ紹介文で書いてる様に本名で生きると言う、ごく当たり前の事が出来ない社会、彼を通しても見えますね。 2つの「史上初」をつくったボクサー徳山昌守、史上初、TV放映されなかった世界タイトルマッチ、これは日本ボクシング史上初である。 史上初=その1 ホンチャンスがチョー・インジュに挑戦したWBC世界スーパーフライ級タイトルマッチ(2000年8月27日、大阪府立体育館)が、テレビ放映なしだったことです。 国内で行われた世界タイトル戦で、日本のジム所属選手がリングに立ち、テレビ放送がまったく行われなかったのは、初めてのことです。異国で生まれ育ち、日本語も話さない外国人選手でさえ、国内での世界戦のテレビ放映は、限定的とはいえ、実現していました。 一方、ホンチャンスは日本で生まれ育った。ボクシングの試合はすべて国内でしか経験していません。さすがに、この時は、まだ、目に見えない○○の時代は続いているのだと実感させられました。 間違いなく、ホンチャンスの出自が原因だったんでしょう。東京の朝鮮学校を卒業した在日朝鮮人。いわゆる日本におけるエスニック・マイノリティーに属する人間、在日だからでしょう。 勿論、大阪で行われた試合、。大阪のジムに所属はしているが、在日であり、東京出身(大阪の風土?)であるという二重の意味で異邦人として扱われたのは間違いありません。 東洋太平洋チャンピオンのホンチャンスには「勝ち目がないから、テレビ放映の価値なし、と決め付けられたのがテレビ放映無しの理由だ。」とTV当局は話すでしょう。 しかし、過去には勝ち目なさそうなマッチメーキングでも、“純?”日本人の場合、なんとか地元のテレビ局なら放送してくれていたのは間違いありません。 史上初=その2 もうひとつの「史上初」は、在日を公表して世界王座を獲得した、ということです。 ホンチャンスの勝利を聞いたとき最初に気になったのは、メディアは、どう報じるのかということでした。「在日」で初の世界王者ではないだろう、ということは予測していましたが、そうした場合、どのように「在日初」ではない、という事実をニュースの中で説明するのだろう? この試合の2週間ほど前に、先ほどの焼肉屋で、試合のポスターが店内に貼ってあるのを見ました。ポスターは「南北はひとつ」というようなフレーズで、はっきりとこの試合が「南北」の対決であることが“売り”になっていることが誰の目にも明らかでした。 ホンチャンスが朝鮮籍であることを公表しているし、このタイトルマッチ自体が、“南北”の対決であること。在日であるという事実を抜きにしてこの試合の結果を報道することはメディアの常識としては難しいだろうと予想はしていましたが、結果は肩透かしでした。 ほとんどの報道は「在日を公表している選手としては初」という表現でお茶を濁していました。ただそれだけでした。 なんだ、そういう“逃げ方”もあったのか? でも、せっかく新時代を象徴するようなボクサーが現われたというのに、旧態然としたメディアは、時代の流れを読むことも、変えようと努力することさえしない。政治的な問題を絡ませたくない。おそらくボクシング関係者のほとんどすべてもそう思っていたのでしょう。 世界王者になったホンチャンスの気さくで、おごらない性格は大阪人の心を捉え、当時、大阪のローカル放送では人気がフィーバーし、庶民ボクサーとしTVをはじめマスコミに引っ張りだこでした。 「ONE KOREA(コリアは一つ)」のトランクスに身を包んでリングに上がるホンチャンスは、己のアイデンティティーを強烈に主張していました。 しかし、彼も又、時代に、政治に翻弄されるチャンピオン・・・自らの意思を貫き通す事はいばらの道を歩む事? リングで幾度となく、統一国旗の朝鮮半島の統一国旗をまとい、応援団に答える彼が、時代に翻弄されはじめます。 拉致の問題が世論として盛り上がりを示しだした2002年には、彼が民族学校出身者、”北”の支持者だということが世論の矢面に曝され、マスコミはおろか、関西大学の学園祭さえも大学実行委員会からドタキャンされるという事態に陥りました。 パッシングの嵐は日に日に強まり、「あの時は、精神的にも落ち込んで、最悪でした」と当時を振り返って知人に話してました。 でも自分が出来ることは「リングで勝つこと」と原点に返って再び、トレーニングを再開、紆余教説を繰り返しながら再びチャンピオン座に返りつきました。 今でも、気さくな庶民派チャンピオンの態度は変わらず、人に色紙を頼まれれば、必ず、数日後には、手元に届いています。 年末のプライドに出る、出ない、転出する、しないでスポーツ紙上をにぎわせていますが、彼の事、最後は、自分の道を自分で切り開いてくれると信じています。 前にも取り上げましたが、日ハムの森本ヒチョリやソフトバンクの孫正義etc..本名で暮らすという、ごく当たり前の事の積み重ねが、この社会の国際化に大きなインパクトを与えると信じています。 最後に、k-plaza.comインタビューを転載します。 -リングの上で己の力を証明することだけだ。されているようですが、韓国を訪れたときの印象、また、今だから話せる裏話などがありましたら、教えて下さい。 徳山選手: まず空港降りてからの報道陣の多さにびっくりした。韓国を訪れたといっても、今回は試合で行ったので減量もしてたし、ほとんど観光は出来ずでした。だから印象なんかも特になし。次行くときは是非観光で行って見たい。 -今までボクシングをやっていて一番つらかったこと、またうれしかったことはなんですか? 徳山選手: つらかったことは、毎朝のロードワークと減量と日本タイトル挑戦に2度失敗したこと。うれしかったことは、世界チャンピオンになったことと、毎試合前の計量が終わった瞬間。 -チャンピオンになってから、今までとは違う、何か大きな変化はありましたか? 徳山選手: 自分の中では自信がついた。 自分よりも周りの対応が変わった。どこ行ってもちやほやしてくれて、正直悪い気はしない。でも、そこで自分を見失って天狗になったらそこでそいつは終わり。「実れば実るほど頭をたれる稲穂かな」 -試合前にはハードな減量や、試合に対する恐怖感など、色々なことを感じると思いますが、そのようなプレッシャーをはねのける精神力の強さは一体どこからくるのですか) 徳山選手: とにかく「勝ちたい」という気持ちから、、、。 洪 昌守:プロフィール 1974年9月東京都生まれ。5人兄弟の末っ子。(兄2人・姉2人) 朝鮮籍の在日3世。東京朝鮮中高級学校高級部卒業後、父親の会社に就職するが、ボクシングへの夢をあきらめきれず、単身大阪へ渡る。94年9月にプロデビューし、95年度全日本フライ級新人王を獲得。99年9月東洋太平洋スーパーフライ級王者に。2000年8月世界タイトル初挑戦で韓国のチョウインジュを破り、WBCスーパーフライ級王者となる。通算9度の 世界タイトルの防衛。 ■洪 昌守公式サイト PC版:http://www.chang-su.com/ 携帯版:http://www.chang-su.com/i/ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.12.17 16:05:40
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