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ファピーの風の花

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2007.04.24
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カテゴリ:在日関連
今こそ、1948年(昭和23年)4月24日、阪神教育闘争を思い起こす。

長い文ですが時間がありましたらお読みください。決して、過去の出来事を賞賛したり、評価しようとするものではありません。今、この時だからこそ、一人でも多くの人に”教育”について、そして、在日の人々が何故民族教育に対してこれ程までに拘りを持つのか。それが決して思想信条では無い部分を知ってもらい、これから先を考えたくてアップしてみました。

1945年8月15日の解放(終戦)後、南にはアメリカ軍が進駐し軍政が布かれます。又、北にはソ連が入りで38度線が引かれました。南が今の韓国。左右の対決、例えば先日の4.3にアップした済州島の4・3事件等が方々で起こり、在日が帰るに帰れない状況が生まれきました。4・3事件は、済州島ので20万の人口で3万とも8万とも言われる島民が犠牲になりました。済州島だけでなく麗水・順天等々で1945年解放直後から、1950年、いわゆる朝鮮戦争が始まるまで、それは、めまぐるしく情勢が変化します。

それでも帰国しようとした時、、マッカーサーの率いる当時の占領軍は、朝鮮人が持って帰る荷物は30貫、そして所持金は1000円(当時の金額ですが、)、ともかく1000円しか許可しなかったのが事実です。その連合軍の命令は1945年~47年まで継続されます。日本へ来て、苦心に苦心を重ねてね築き上げた財産を持って帰れない状況が続きました。生活の土台が故郷に無く、日本に来ていた1世の中には大正時代から暮らし、それ以外でも、徴兵や徴用,動員で日本に来た人たちは、生活の土台が故郷にもないわけです。

そんな中、帰ることを前提としながら、ともかく、「われわれの子女に朝鮮の民族の魂を宿らせよう。」そう思いつつも戦前は許されず、皆、日本学校に通わせました。戦後になって「民族の歴史、特に言葉を教えなければならない。」そういう思いが爆発し、雨後の筍のように学校ができ始めます。1945年~47年と、戦後3年の間に、国語講習所という名前でスタート。後日、正規の学校となって行きます。統計によると1948年の時代には朝鮮学校が初等学校566校、生徒数53,000人。中等学校7校、生徒数3,300人。青年学校が33校、生徒数1,800人、これだけの学校が日本全土に出来ました。初等学校566校、そのうちでも大阪だけで66校に達しました。(この中には韓国系の建国学校もあり、このデモにも参加し、閉鎖反対運動を反対繰り広げました。)
      
【GHQと日本政府による弾圧と4.24阪神教育闘争】
 しかし、G・H・Qと日本政府は「朝鮮語で民族教育をすること、民主主義的民族教育はいけない。」と通告してきます。韓国は軍政が布かれているから、朝鮮人は独立した国民とは認めない、こういう図式です。政府は、戦前の同化政策を継続使用とし、そんな状況下。1948年には、「朝鮮学校」という存在そのものが、「天敵」として見えてきます。朝鮮戦争を前にして、朝鮮学校閉鎖命令を、最初に山□県の学校から公布されます。(吉田内閣、何とも皮肉な?)そして、神戸・1948年4月12日になると、大阪、「大阪の66校のうちの17校は、設備が不備である。」と言う理由。「朝鮮学校はいらない、日本学校で学びなさい。」と、閉鎖命令が出ます。

在日が自分の言葉を取り返し、真のアイデンティーを探そうと大阪在住の12万の朝鮮人が立ち上がりました。神戸や岡山でも。朝鮮の学校のある所は全ての規模に膨れ上がります。
神戸では四月一五日、在日代表たちが県知事と交渉する約束をしていたにもかかわらず、突然拒絶されたため、抗議の座り込みしていたところ、全員が逮捕された。続いて二三日には民族学校の閉鎖が強制執行されます。
24日、同胞たちは兵庫県庁前で約一万人の集会を開き、県知事と交渉した結果、学校閉鎖の撤回など5項目が合意されます。同時に、警察に15日に逮捕された人々を釈放させる約束も取り付けました。集会参加者たちは要求を勝ち取った感激を味わいながら、帰路に着きますが、同日深夜、神戸軍政司令部は突如非常事態宣言を発し、合意文書の無効を宣言するとともに、3日間で1,732名を無差別逮捕しました。

大阪でも、4月23日、15,000名の在日同胞が、大阪市庁(現、大阪府庁)前に集まり、「閉鎖命令を撤回せよ!」と要求します。その時は、赤間文三が大阪府の知事でしたが、逃げてしまい、副知事が交渉を持ちます。その場で副知事は「朝鮮語で民族教育をすることが、治安に悪い。だから、朝鮮学校は閉鎖しなければならない。」まさに信じがたい論理で説明がなされます。本質的には同化政策を繰り返す意図です。今もその意図は変わらず、「朝鮮学校は閉鎖し、みんな、日本の学校で勉強しろ!」の不条理が続いています。(これが世にいわわれる阪神教育闘争の由縁です。)

これに抗議し、民族教育を支援する市民や父母が逮捕され、留置場に入れられ、翌24日には、それに抗議し、再び、15,000名の群集が、前日逮捕された人たちの留置場に分かれて釈放を要求して抗議のデモを行いました。これに恐れをなした占領軍の神戸司令官、アイケルバーガーが24日、非常事態宣言を出し戒厳令が布告されます。そして、戦車、装甲車を出動させ弾圧を始めます。しかし”民族教育を守る闘い”に全大阪の在日同胞たちが結集し、その数45,000人が大阪市庁(現府庁)前の、大阪城公園に結集し、大阪支庁を取り囲んみます。警察も占領軍の指示によって8,000名が出動し、45,000名の市民とと対峙すました。


【少年、金太一君、警察の発砲で射殺】
整然と隊列を組むデモ隊は、手に武器を持たず、スクラムを組んで整然と隊列を組んでいました。府庁の3階まで座り込みをしていましたが、官憲が武力で鎮圧しようとしたため、一旦退去しようとしますが、警察は「5分以内に退去せよ!」と、それは挑発でしかありませんでした。45,000人が解散するにはそれ相応の時間を要しました。その最中、消防車のホースでデモ隊を蹴散らし、混乱に一層拍車をかけ、まして、私服を着た挑発分子が紛れこんで。時を見計らい、「デモ隊が暴れてる!」ということで、銃をデモ隊に発砲し始めました。
          
そして、少年、金太一(写真、1948年4月27日、大阪赤十字病院で撮影。この40分後に死去と葬儀)という16才の少年が後頭部を撃たれ亡くなりました。この時、警察の弾圧で3000人ぐらいが逮捕されたと記されて。

犠牲者は、金 太一(キム・テイル)少年が射殺され、神戸のパク・チュボム先生は捕まって獄中で死にました。そして重軽傷者数百名、裁判を受けて33人が追放になりました。勿論、占領軍による軍事裁判です。この時、デモに参加した動員数は延べで120,000人といわれてます。その後も、市内のデモ・集会は、全て禁止。そして、この崇高な民族教育を守ろうとした闘争を、日本政府は「破防法」として位置づけ、以降、朝鮮総連を「破防法指定団体」とし、日本政府からすれば、この時の朝連(総連の前身)のイメージをそのまま今日まで引っ張っているのは事実です。


【大阪市との民族教育に関わる覚書】

1949年10月19日、正式に朝鮮学校閉鎖命令が出て、警察隊が朝鮮学校に押しかけ、ガラスを割ったり戸を潰し突入してきますが、父母や子供たちは一緒に抱き合って学校を死んでも守るんだと闘いますが、結局、閉鎖の赤紙を貼られ、ついに朝鮮学校は閉鎖されます。
          
しかし、この最中に大阪市と覚書と言う形で協定を結びました。その後も交渉は続き、1948年5月3日に文部大臣と、朝鮮連盟(朝鮮総連の前身前身)との間で次のような覚書が交わされます。

・閉鎖後は、付近の日本学校に所属させ、朝鮮人教育の自主性を生かす。

・朝連が推薦する教員を認める。

・国語・社会・地理・歴史・音楽などは、朝連教科書編纂委員会で作成されたものを使用する。

・認可手続き過程では、日本学校と全く同じように行う。」

この覚書が、今日、現在日本学校の中にある「民族教室」の基礎となっています。


しかし、4・24の阪神教育闘争は、結局、学校閉鎖ということで幕を閉じるわけです。

戦後、子どもたちが自分の国の言葉、国語を知らなかったので、出発(帰国の)までに片言でもしゃべれるようにしてやらなければならない。このような在日の願いがかなって、朝鮮の子どもたちに朝鮮語を教える講習会ができました。民家の空室や工場、そして倉庫の片隅などを作り替えて教室にしまし。そこに自分たちの作った机や椅子、黒板が持ち込まれました。若者たちがこしらえたガリ版刷りのプリントで授業が始まり、いわば寺子屋ができあがったわけです。その頃、日本の学校は全て荒れ果てて、青空教室で授業が続けられるという混乱振りのせいもあり、朝鮮の子どもたちは、ほとんどが学校に行けなかった現状でした。だから子どもたちは喜んで朝鮮語の講習会へやってきました。

こういうバラックみたいな学校で勉強すると「朝鮮学校、ボロ学校」そういうように言われたらいしいです。それでも、学校で勉強し、民族性守ったのもつかの間、ついに66校あった学校が全て閉鎖されました。ただ一つ、大阪市内の西今里公立朝鮮中学校だけが(現本庄中学校向かい)、その分校としてありました。今は、中大阪朝鮮中級学校となっています。その西今里朝鮮中級学校でも日本の先生がほとんどでした。講師で朝鮮人の先生が数人。その頃になれば日本の先生が授業してたと当時を振り返ってお年寄りが話されています。

故金太一のオモニの話
「あの子はかわいそうな子です。6つのとき父を失い、勉強も他人様のようにさせられませんでした。学校といえば、小学校4年で中退して、7人の家族を養うために工場で働き、行商に出歩いたり、辛いことばかりでした。26日の朝、(4月26日ですね、4・24というのは非常事態宣言布告の日ですから、その後も25、26、と闘争が続いたんですよね)その日は、『人民大会には行かない』とわたしたちを安心させておいて、自分たち、友達同士では『学校を守るために参加しなくてはならん』と言って出かけたんですよ。」

【朝鮮学校前を素通りして、日本の学校へ】
生野区には、在日韓国・朝鮮人が75%在籍しているという学校があります。その学校では在日の子供たちが大多数を占めています。学校名は御幸森小学校(みゆきもり)です。コリアンタウンがある近くにある学校です。その子達は富士山は習っても、白頭山は知らないんです。ウリマルを全然知らんない、それこそ、日本人でもない、韓国・朝鮮人でもない子が、この大阪にいっぱいます。

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007042600046&genre=K1&area=K1F







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Last updated  2007.05.24 19:50:40
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