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カテゴリ:プレイバックシアターで自己発見表現講座
昨夜は、
プレイバックシアターではなく、プロセスワークが中心になってしまった。 プレイバックをするはずだったのに、それは行われなかった。 「こんなことは、許されない」と激怒するのも、ひとつの反応だろう。 「なるほど、そういうこともあるのか」と承諾する反応もあるだろう。 「なぜ行われなかったのか」と疑問を自身で探求するかもしれない。 また、終わったあとになって、 ファシリテーターを責めたくなる気持ちが、浮上するかもしれない。 それらのどれも、間違いはない。 反応を興味深く観察することが、より重要だと思われる。 それを微細に感じると、昨夜のことが、明確になるかもしれない。 いずれにせよ、その場に居た人の状態が、全く無関係ではないのだ。 わたしの経験では、 プレイバックシアターで初めてアクターをした時も、 コンステレーションで初めて代理人をした時も、 その不思議な感覚と、自分の奥深くにあった何かがリンクして、 どうにもこうにも、すぐには収まらない、ざわざわ感があった。 同様の体験を経験する人は多い。 わたしはその感覚を確かめるために、 そのままでは置いておけない感覚に突き動かされて、 PTとFCのトレーニングを、とことん続けているともいえる。 それが意味するものが何であれ、 わたしは、それを知る必要があるようだ。 その過程は、決して楽ではない。 微細な自分にしかわからない感覚を、 無意識な状態から、意識化して浮上させると、 時として痛みを伴う。 とっくの昔に解決したと思っていたことが、 実は、ずっと根深く残っていたことに気づかされることがある。 見えている部分だけを取り除いても、 後から後から生えてくる生命力豊かな雑草のようだ。 根っこから、しっかりまるごと取り除く作業が必要だったのだ。 観たくないものを、観ずにいることもできたかもしれない。 感じたくない痛みに、触れずに避けることもできたかもしれない。 しかしながら、わたしは、 繰り返し訪れるそれらのサインを、避けて通れなくなったのだ。 どんなに逃げても、 わたしはわたしの影から逃げることはできない。 向き合って、その正体を見るしかない。 そして、統合し融合する。 簡単なことではない。 が、わたしは覚悟を決めた。 棘(いばら)の道を歩む、その孤独な作業を。 すべての人が、選ぶべきだとは思っていない。 わたしと同じ、物好きな人は、この限りではない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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