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カテゴリ:訃報
ヘルムート・バーガー氏が18日に死去された。享年78。 ルキノ・ヴィスコンティ監督作品の主演俳優として代表作に『地獄に堕ちた勇者ども』『ルートヴィヒ 神々の黄昏』『家族の肖像』。 私は、『地獄に堕ちた勇者ども』においてヘルムート・バーガー氏が演じた製鉄産業界の重鎮ヨアヒム男爵の孫マルティンが、男爵の誕生日の余興に、マルレーネ・ディートリヒそっくりに倒錯的女装をして見せたので、失礼ながら「こんなに上手い俳優だったのか」とびっくりした。 そしてその後、『ルートヴィヒ』でもその素晴らしさに賛嘆した。 狂王ルートヴィヒ ll世を描いた映画は他にドイツ映画が2作品ある。ヴィスコンティにさきがけて1955年にヘルムート・コイナー監督、ゲオルク・フルグレス脚本、美男俳優といわれたオットー・ウィルヘルム・フィッシャーがルートヴィヒ ll世を演じた。この映画の日本初公開は2007年、東京のアテネフランセ文化センターにおいてだった。 この作品については好意的批評が多い。たしかに見るべきところはある。しかし私の感想は厳しい。なんと言ったらよいだろう。映画を貫徹する構図に中心が無いというか、歴史的素材に目移りして訴求力が無いというか。そしてまた、美貌といわれた主演のフィッシャーだが、その美貌はルートヴィッヒを演じて、ヘルムート・バーガー氏が演じたような若き王の鋭い癇癖性が容貌にない。私は、この癇癖性は重要だと思う。王が王であろうという内的葛藤をかかえ、圧倒的威厳と狂気の内在を美貌に添えているからだ。晩年の王を、ヘルムート・バーガー氏は、甘い物が好きで歯が虫歯でボロボロになって、歯痛のために晴れた頬の無惨な容貌をみごとに表現していた。あるいはエリザベートが建設成ったヘルンキムーゼ城のベルサイユを模した「鏡の間」を訪れるシーンは、私はヴィスコンティ監督の演出 (ロミー・シュナイダーが演じた)の鋭敏に震えを禁じ得なかった。ヘルムート・コイナー監督の演出は比較するのも無駄である。王の狂気を鋭い音楽で頭を押えたり怒鳴りまくる演技など、コイナー監督の演出はいささか幼稚、と私は感じた。ヴィスコンティ監督がヘルムート・バーガー氏にそんな学芸会並みの演技を要求するはずもなかっただろうが。 ヴィスコンティ以後でも一作品あるが、ヴィスコンティ作品とはまるで比べ物にならない。ルートヴィヒ を演じた俳優の容貌はひとことで言えば「賤し」く、演技以前である。日本人にとってこの狂王ルートヴィヒ ll世の面影は、早くは森鴎外『舞姫』にその死が記述されてい(鴎外はこのときドイツに留学中だった)、澁澤龍彦が『異端の肖像』において詳しく描いていた。それらの書物を知らない人でも、ディズニー・ランドの白雪姫の城のモデルがルートヴィヒが国を傾けて築城したノイシュバンシュタイン城であることは知っているだろう。 ・・・というわけで私自身にヴィスコンティ作品以前にルートヴィヒ ll世のイメージはあった。そのイメージにヘルムート・バーガー氏が演じたルートヴィヒはピタリと重なったのである。 その素晴らしさはバーガー氏自身が重々自覚していたであろう。しかしながらバーガー氏は後年、その夢を追いすぎた、と私は思う。 ヘルムート・バーガー氏は1993年に『Ludwig 1881』に主演し、ふたたびルートヴィヒ ll世を演じた。1881年、王はお気に入りのスイスのレマン湖の物語を携えて、実際のレマン湖で寵愛する俳優ヨーゼフ・カインツ(ディディエ)に演じさせたのであった。監督はドナテッロ・ドゥビニとフォスコ・ドゥビニ。脚本はドナテッロ・ドゥビニ、フォスコ・ドゥビニ、そしてバルバラ・マルクス。 ・・・映画としての目のつけどころはおもしろい。しかし、この映画の「絵」の充実度は「貧しい」と私は感じる。製作費をケチった低予算映画だということが一目瞭然だ。小道具には見るべきものがある。立体写真の覗き眼鏡。ノイシュバンシュタイン城でロケーション撮影した白鳥のグロッタ(人工洞窟)での回転式照明器具や、喇叭型蓄音機などだ。 ルートヴィヒ ll世は、ヨーロッパ王家のなかでれっきとした王だったにもかかわらず、王であることに内心に不安をいだき、フランスのルイ14世太陽王に憧れ、豪奢と生まれながらの骨の髄までの驕慢をまとっていたはずだ。そういう人物が国家の財産を使い尽くしてお伽噺の幻想を現実にしようとした。通常ならば「蕩尽」と言うところだが、ルートヴィヒの場合は遊びではなかった。彼の人生だった。国を統治する王ではまったくなかった。・・・想像を絶する・・・そう、王が指示したレマン湖でのパフォーマンスにも王の周囲にも、常人の想像を絶する王の「狂気」が、映画の画面にゆらめいていなければならない、と私は思う。そういう狂気のゆらめきや、凡庸な俳優であるヨーゼフ・カインツに執着した王の秘めた焰が、この映画にはまるで表現されていない。カインツ役の俳優はキャスティング・ミスと私は感じる。実際のルートヴィヒは美貌で知られた。映画とはいえその王がホモセクシャルな魅力を感じる容貌・容姿の俳優とは思えないのだ。文学とちがって映画はイメージの直球である。観客の意識が没入しなければなんにもなるまい。大抵の観客は実際のルートヴィヒ ll世についてよく知っているのである。いいかげんな映画作品で通用するはずがあるまい。ヘルムート・バーガー氏だって、共演者が役のニンにあわなければ、芝居のしようがなかったかもしれない。 寵愛されていたとはいえ映画の中での俳優ヨーゼフ・カインツのなれなれしい態度。たびたびの食事のシーンなどは、私はこの役を演じた俳優の計算された演技ではないと見た。「王の食事」には歴史的な「意味」あるいは「儀式性」が背後に積み重なってい、そのうえで今ここにルートヴィヒの軽い食事もあるのだということを監督は描いていない。見かけのお膳立てではない。背後にある時代の絶対的な階級制を意識しているか否かという問題だ。すべての王という人間の心性にある抜き難い驕慢。神話的に宣言した不可触の存在。ヴィスコンティ監督は出自が出自だけに、一杯のワインを飲むルートヴィヒとそれをただ見つめるだけしかない俳優カインツをきちんと描いていた。こういうことはバーガー氏の責任ではない。監督の演出力のせいだ。たしかに、映画の最後に王とカインツが一緒に撮った実物の写真を紹介し、椅子に掛けた王の左肩にカインツが立ったままなれなれしく手を掛けていたのを、その手を消去修正した写真が残っているのだと解説していた。しかし、私が指摘する問題は、その説明ですむことでもない。『Ludwig 1881』は、見るべきことを制作者が何も見ていない映画だ。 死者を鞭打つようだが、ヘルムート・バーガー氏にかつて画面を圧倒した輝きがない。私が言うのは、若さにあった美貌のことではない。実際の王も1881年ころは病的にむくんだ顔をしていた。その変貌ぶりはヴィスコンティの『ルートヴィヒ』で、バーガー氏自身がみごとに活写していたではないか。私は無礼な感想をもつ。ヘルムート・バーガー氏はルキノ・ヴィスコンティ監督によって活かされた俳優だった、と。 私にとってヘルムート・バーガー氏は『地獄に堕ちた勇者ども』『ルートヴィヒ 神々の黄昏』『家族の肖像』、この3作品によって偉大な俳優である。 ・・・芸術というのは恐ろしい。 私が所持する『地獄に堕ちた勇者ども』のDVDの画像、そして、今は無い岩波ホールで43年前に上映された『ルートヴィヒ 神々の黄昏』の劇場パンフレットの画像を掲載して、ヘルムート・バーガー氏を追悼します。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 30, 2023 02:50:46 PM
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