アラン・ドロン氏が本日2024年8月18日、亡くなられた。享年88。
私が14歳の1959年に日本公開された『お嬢さん、お手やわらかに』(ミシェル・ポワロン監督、1959年)が、アラン・ドロン氏が日本の映画ファンの前に登場した最初だった。そして翌年の作品『太陽がいっぱい』で、その美貌とともに名声を確固とした。同年(1960年)のルキーノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』。以後、アラン・ドロン氏の出演映画作品はすべてほぼ制作年に日本公開されてきたのではあるまいか。如何に日本で人気があったかという証拠であろう。もちろんご本人も何度か来日されている。私自身、25作品以上観ている。
下に掲載した画像は、1990年2月に銀座文化劇場で上映されたルキーノ・ヴィスコンティ監督作品特集のパンフレット。実はヴィスコンティ作品で『揺れる大地』(1948年)だけが日本で公開されていなかった。そのいわば記念すべき初公開がこの特集上映だったのである。『若者のすべて』が併映されたのは日本ヘラルドの恣意的な企画ではなく、ヴィスコンティ監督自身が『揺れる大地』の続編のような作品であると言っているのである。そして、1958年にパリ滞在中に一目アラン・ドロン氏を見た監督は、「ロッコだ!」と心の中で叫んだのだそうだ(同パンフレットに拠る)。
ちなみに『揺れる大地』(1948年)は48年のヴェネチア映画祭で上映され国際映画賞を受賞したが、 50年のイタリア公開は短縮版だった。また55年のアメリカ公開も短縮版。したがって1990年の日本初公開がはじめて完全版の上映だった。
また、『若者のすべて』が1960年に日本で初公開されたとき、輸入会社は勝手に挿話を部分的に大幅にカットした。上映時間が2時間56分だったからだろう。そのためヴィスコンティの意図は曖昧になってしまった。・・・つまり1990年の銀座文化劇場での2作品連続上映は、その意味でも記念すべきものだった。
「若者のすべて」に、性格の異なる5人兄弟の、感受性が強く精神的に複雑で陰影深いロッコ役で出演したアラン・ドロン氏は、翌年ヴィスコンティが演出する舞台作品に婚約者ロミー・シュナイダーとともに起用され、つづいて『山猫』に快活な貴族青年の役で出演した。
「地下室のメロディー」や「リスボン特急」、あるいは三船敏郎と共演した「レッド・サン」、「ボルサリーノ」や「仁義」等々、私の忘れられない作品を挙げてアラン・ドロン氏を追悼いたします。
VIsconti Collection presented by BARCLAY
発行:ヘラルド・エンタープライズ、デザイン:吉見真琴、1990年2月