古代のお酒づくりから
11月16日が今年のボージョレヌーボー解禁日ですね。以前は毎年欠かさず買ってましたが、今は熱が冷めて買わなくなってます。だいたい浅いワインだから、お水代わりにゴクゴク飲むものですしね。一昨日のTBSテレビ「世界遺産」でブルゴーニュのブドウ畑を映し出していましたね。この放送で「ほほう~」と興味でたのは、畑の地質・日照など自然条件の違いによってワインの味わいが違うので、1つの区画の葡萄のみで1銘柄のワインを作ること。なので区画が違うと、たとえ隣り合ってても作られるワインの値段が3倍も違うらしいです。紀元前10千年紀と云うのは紀元前10,000年~紀元前9,001年までの千年紀(ミレニアム)のことで、今からおよそ1万1,000年~1万2,000年前になります。中石器時代や亜旧石器時代が始まる時期のことですね。この時代、東のペルシア湾からチグリス・ユーフラテス川を遡り、シリアを経て西はパレスチナ、エジプトに至る半円形の肥沃な三日月地帯で農業が始まりました。同時に、三日月地帯ではお酒の生産が始まったのです。およそ7,000年~8000年前の紀元前6千年紀にはメソポタミアのシュメールでビールが発明されてます。紀元前6千年紀は日本では縄文時代早期~前期にあたります。ビールはメソポタミア人の食生活で最も大切な飲み物で、男性、女性、お子さま問わず一番人気のお酒でした。ゴディ テペの小さな村で女性によって始められたビール醸造や、シュメールのエブラでは、さまざまなレシピを使用して大量のビールが醸造されました。これらのビールは、パンの残りで出来た大麦を使って作られた可能性があります。紀元前5千年紀にはエジプトでビールとパンが作られ始めました。紀元前2,500年ころのエジプトではピラミッド建設が盛んに行われていて、建設に携わる労働者への配給はパン3~4斤とビール約4リットルだったのです。古代エジプト人にとってビールはホントウに身近な飲みもので、家や居酒屋で気軽に飲んでいた記録も残っています。現在のビールのアルコール度数は平均5%程度ですが、当時のビールはもっとアルコール度数が高く、約10%くらいだったようです。今のワインと同程度の度数ですね。メソポタミア文明のころ、今からおよそ6,000~7,000年前の出来事を書いた「ギルガメッシュ叙事詩」に、大洪水に備えた船を建造してたとき水夫にワインがふるまわれたと記述されてます。ブドウの原種は、300万年前には既に地上に繁茂していたと云いますから、メソポタミア文明でワインが出てきてもおかしくないワケです。エジプトでは、第一王朝のころから壁画にワインの圧搾機や壷が描かれています。エジプトでは紀元前4,000年ころにはブドウが栽培されていました。エジプトにおけるワイン造りの最も古いは遺跡は、先王朝時代の紀元前3,000年ころまで遡ります。今日のフランスワイン隆盛をもたらしたのは、ローマ帝国のジュリアス・シーザーです。「ガリア戦記」によると、彼の足跡はフランスにワイン造りを伝えた道程だったとも云えるものです。シーザーが征服していた地域、マルセイユから真北に向かって河を遡ると、コート・デュ・ローヌ、ボージョレー、ブルゴーニュ、アルザス、さらにその西にはシャンパーニュと、フランスワインの名前がことごとく出てきます。紀元前58年~紀元前51年のことです。初期のワイン造りでは、素焼きの壷「アンフォラ」が使用されていました。アンフォラは、陶器の器の一種で、2つの持ち手と、胴体からすぼまって長く伸びる首が特徴です。アンフォラは紀元前15世紀ごろのレバノンからシリアの海岸に現れて世界に広まり、古代ギリシア・ローマにおいては、ブドウ、オリーブ・オイル、ワイン、植物油、オリーブ、穀物、魚、その他の必需品を運搬・保存するための容器として使用されました。ワインはアンフォラを地中に埋めて保存してたようです。最初の蒸留アルコールの精製は、8世紀~9世紀にかけて中東で行われたものらしい。その後、蒸留技術は十字軍遠征を通して中世アラブ人から中世ラテン人に伝播したのです。アルコール蒸留最古の記録は、13世紀のイタリアでラモン・リュイによる、ワインからアルコールを蒸留させたものですね。その蒸留技術は中世の修道院に広がり、主に疝痛や天然痘の治療用として医療目的で使用されました。15世紀までにはアイルランドとスコットランドにも蒸留技術が伝わりますが、当初は他のヨーロッパ諸国と同じく、アルコール蒸留=薬用目的であり、ラテン語で「命の水」と呼ばれてました。その名前が「ウィスキー」に変化していったのですね。世界で最も古く認可されたウイスキー蒸留所は、北アイルランドのオールド・ブッシュミルズ蒸溜所です。1608年に、ブッシュミルズはウイスキー蒸留の許可をイングランド王ジェームズ1世から得て操業を開始したのですね。日本にウイスキーが入ってきたのは1853年の黒船来航のときです。江戸幕府側の役人や通訳が乗船した時にウイスキーが振る舞われたそうです。1871年には日本向けに「猫印ウヰスキー肩張丸形壜」がカルノー商会によって輸入されましたが、当時の日本産ウィスキーはと云えば、安価な輸入アルコールに砂糖や香料を加えた「模造ウィスキー」しかありませんでした。本格的な国産ウィスキーを目指したのがご存知、鳥井信治郎と竹鶴政孝ですね。1918年にスコットランドへ留学してウィスキー製造を学んだ竹鶴の下で、1923年に日本初のモルト・ウィスキー蒸留所である山崎蒸溜所の建設が始まります。そして1929年に国産第一号のウイスキー「サントリーウヰスキー白札(サントリーホワイト)」が販売されました。その後、竹鶴はさらに本格的なスコッチ・ウィスキーの生産を目指し、1934年に余市蒸溜所を設立するワケです。