カテゴリ:ユークリッドの平行線
父に宛てたメールを何とか送信して、ほっと一息ついた時に育樹が帰ってきた。 「ただいまぁ」 春になれば二年生になると言うのに、育樹は同学年の子供たちと比べて背が低く痩せていて、いつまでたってもやたらとランドセルが大きく見える。 「お帰りぃ」 あどけない眼差しに答えながら、はっとした。そうだ、ここにもう一人、病人がいるのを忘れていた。 「おやつは?」 「手を洗ってからね」 「はぁい」 育樹は生まれつき「肺動脈狭窄症」という疾患を抱えていた。肺動脈の一部が狭くなっているため、右心室から肺に送られる血液の通りが悪い。不幸中の幸いで、心音に多少雑音が混じるものの軽症だったので、普段の生活には何の制限もなかった。通院の必要もなく、年一回の定期検診を受ける程度。成長していく過程で血管が太くなるか、あるいは現状維持のままであれば問題はない。だが万が一、心臓の負担が大きくなるようなことがあれば血管の拡張手術をしなければならなかった。 病気と直接関係があるかどうか分からないけれど、育樹について気になっていることがあった。 今日は元気そうに帰ってきたが、ここのところ学校で何をしたというのでもないのに、たまに酷く疲れて帰ってくることがあった。起きているのもままならない様子で、くたっと部屋で横になったかと思うとそのまま何時間も熟睡してしまう。おやつどころか夕飯にも起きてこないことがあった。 もともと同年代の子供たちと比べて疲れやすいところがあったし、熟睡した後はいつも元気になっていたのであまり気にはしていなかった。だが育樹と同じような症状の子が、病院で調べてもらったら大変な病気だったという話を最近ママ友から聞いて、少し心配になっていた。 「肺動脈狭窄症」は重症になると、心不全を起こして、運動時の息切れや動悸、胸痛などがあると聞く。もしかしたら育樹の疲れも病気に関係があるかもしれない。ちょうど来週、年に一回の定期検診があるのでその時に聞いてみようと思っていた。 私が横浜へ行くとなると定期検診は先延ばしせざるを得ない。病院で診てもらわないまま、育樹を愛媛に置いて行ってしまって大丈夫だろうか。夫も一年で一番仕事が忙しい時期で帰りも遅く、車で片道一時間以上離れた松山まで行くことも多い。私の留守中に育樹の身体に何かあったら? それが学校にいる時や友達と遊んでいる時ならまだしも、今日みたいに兄の豊樹よりも一足早く帰宅して、一人きりの時だったら大変だ。 そうかと言って、何事もなければ元気な育樹を一週間も学校を休ませて連れていくというのもどうなのだろう? 手を洗いに行く育樹の背中を見ながら、私もおやつの用意をするためにキッチンに立った。プリンに添えるリンゴを切っていたら、携帯のメール受信音が鳴った。 「育樹、リビングのテーブルの上にある携帯持ってきてくれる?」 メールの差出人は高校からの友人の藤崎美津子、件名は「訃報」だった。 慌ててメールを開いて言葉を失った。 『突然ですが、今朝、まどかのお父様がお亡くなりになったそうです。』 まどかのお父さんのことを、懐かしく思い出していたのはついさっきのことだったのに。 あまりのタイミングにただ驚くしかなかった。 メールにはまどかのお父さんは昨年の夏に体調を悪くして、昔働いていた瀬賀浦中央病院に入院していたと書かれていた。つまり父と同じ病院ではないか。 そう言えばこの半年間、一、二回ほど簡単なメールのやり取りをしたくらいで、まどかとはほとんど連絡を取っていなかった。まどかは仕事もしていたし、家や子供のこと、お父さんの看病などでそれどころではなかったのだろう。 それにしても寝耳に水だった。父や母からも、病院でまどかに会ったという話は聞いたことがなかった。大きな病院なので、恐らく別々の入院棟にいたのであろう。 だとしても、年明けに入院した父とまどかのお父さんは、この数週間は同じ病院にいたということになる。偶然と言えばそれまでだが、何とも奇妙な感じが拭えなかった。 『お香典は個人ではなく、友人一同という形でしたいと思います。麻実は遠方だから来られないと思うので、差し支えなければこちらで麻実の分を立て替えておきます。金額は後でまた連絡するね。』 メールにはそう書いてあった。 愛媛と横浜、普段ならそうさせてもらったかもしれない。だが、まどかのお父さんにはお世話になったし、最後のお見送りくらいしてあげたい。そして今回はそれが許される状況だった。偶然にも横浜に行く予定なのだから。 「ねぇ、ねぇ、おやつ、まだぁ?」 先程からキッチンのテーブルに着いて、大人しく待っていた育樹の前にプリンのお皿を置いて、すぐに美津子に返信した。 『実家の両親が二人とも入院していて横浜に行く予定なので、行ければお通夜か告別式に行きたいと思います。詳しい日程が分かったら教えてください。それと私の分のお香典もそのときに渡したいけど、美津子に渡せばいいの?』 美津子からの返信もすぐに来た。 『了解しました。詳しい日程は分かり次第、すぐ連絡するね。それとお香典の件は私がまとめさせてもらうので、私にお願いします。』 一度しか着ないだろうけれど、喪服も持っていかないとな。そう思ってこの日の夜、キャリーバッグに喪服を入れた。まさか横浜にいる間にこの喪服に二度も袖を通すことになるとは、この時は夢にも思っていなかった。(つづく)
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