カテゴリ:ユークリッドの平行線
愛媛に引っ越してからも横浜へは何度も帰省しているが、乗り換えのため横浜駅で降りると育樹は私の腕にしがみついてきた。 いくつも並んだ改札口から次々に吐き出される人々は、広い地下道を埋め尽くし、洪水のようにうねりを上げて絶え間なく流れて行く。 その様子に育樹はいつも怖気づいていた。 愛媛でも中心部の松山ならそれなりに人も多いが、さすがにここまでの人ごみはそうはないし、ましてや今住んでいる町では大きなお祭りでもない限り、これほど大勢の人々を一度に目にする機会はなかった。 流れにさらわれて迷子にならないように、顔を強張らせてしがみついてくる育樹とは反対に、私はこの光景を見ると、横浜に帰ってきたことを実感してどこかほっとしていた。 濁流のような人ごみの中に一旦身を投じてしまうと、まるで水を得た魚。行き交う人々の間に生ずる僅かな隙間をするりと抜けて、自分の行きたい方向へ縦横無尽に突き進む。それは何とも言えず心地良かった。 こういうのも「郷愁」と言うのであろうかと、ふと可笑しな気持ちになる。 石川啄木の短歌に「ふるさとの訛りなつかし停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく」というものがある。啄木に遠く離れた故郷を思い出させたのは、人ごみではなく、そこに混じっている同郷の人の訛りであった。同郷の人の訛りを頼りに啄木は故郷の緑豊かな山々や、そこを吹く澄んだ風や小川のせせらぎなどに想いを馳せていたのであろう。 それこそが私が思い描く「郷愁」というイメージだった。だからこんなごちゃごちゃした人ごみに懐かしさを覚えてしまう自分が、どこか不健全な気がしてならなかった。 けれどさすがに今回は違っていた。 帰省の理由が理由だっただけに、人ごみに紛れても少しも気持ちが高揚してこない。それどころか、かえって気がめいってきた。 一刻も早く母や父の病院に行かなければならないと思う反面、足取りは重く、駅構内に溢れる人波を煩わしいとさえ感じていた。 同じものを目にしても、その時の心のあり方で随分感じ方が変わるものだ。 「ここで切符買うからね」 「まだ電車乗るの?」 「あと一つだけ。二十分くらい乗ったらお終いだから」 後になってみれば、この前日からの出来事など、これから直面することに比べたらたいしたことではなかった。 だがあの時は、いっぱいいっぱいになっていた。どうしてあんなに気に病んでしまったのだろう。 結局のところ私は現状を把握はできていても、それを受け入れることができていなかった。 毎朝、家族を「いってらっしゃい」と見送り、家事の他は友達とお茶をしたり、自分の趣味を楽しむだけの日々に、急に空から巨大な氷柱が降ってきてどすんと突き刺さったような気分だった。 恐らく孝之も私と同じだったのではないだろうか。 孝之には昨夜もう一度電話して私と育樹が横浜に行くことを伝えた。夜になっても孝之の興奮した状態は治まっていなかった。異常なほどの饒舌さは、昼間電話した時と変わっていなかった。 「明日はね、病院の、デイがある日なの。デイ・ケア。分かるよね? 朝早いんだ。六時には家を出るから」 「そんなに早く行くの?」 「うん。いつも、そう。あのね、七時過ぎちゃうと、朝は、ほら、通勤ラッシュが始まるでしょ。僕ね、あれが嫌いなの。だからその前に、電車が空いているうちに行きたいから。それに、始まるまで、だいぶ時間があるけど、他の人もね、結構早く来て、缶ジュース飲んだり、煙草吸ったりしてる」 孝之がデイ・ケアに通う病院までは、電車と徒歩で合計一時間程かかる。午前九時から始まるデイ・ケアに間に合うように行くには、七時・八時台の通勤ラッシュを避けると、そのくらい早い時間に出なければならない。 「それで帰ってくるのは何時頃?」 「帰ってくるのはね、夕方。だいたいいつも、四時か五時ごろ。お昼も、デイで食べるから。だから明日は、家に誰もいないし、鍵がかかってるけど。僕の鍵は自分で持ってる。お母さんね、お母さんの鍵、病院に持って行ったみたいなんだ。どこにもないの。僕の鍵、どこかに置いて行こうか?」 「ううん、いいよ。着いたらそのままお母さんの病院に行くつもりだから、その時お母さんに聞いて、もし鍵を持っているようなら借りて行くし、なくてもその後、お父さんの病院に寄ってから行くから、多分家に着くのは五時過ぎになると思う」 「分かった。僕も、なるべく早く帰るようにするから、明日は。ご飯はどうする? 炊いておこうか? ああ、でも、僕、明日は朝早いから炊けないや。保温にしておくとね、電気代がかかるでしょ。だから、いつもスイッチ切っちゃうんだよね。お母さんがそうしてるから。ご飯が炊けたらね、スイッチ切っちゃうの。朝、炊いてもいいんだけど、そうするとね、スイッチ切らなきゃいけなくなるでしょ? だけどね炊けるのを、待っていたら、デイの日だから、遅くなると困るんだ」 途切れ途切れの短い言葉が孝之の口から、数珠つなぎになってぽろぽろ続いた。それはまるで心に溜まった何かを、必死に押し出しているかのようにも思えた。だから出来るだけ口を挟まず、ただ耳を傾けて孝之の言葉が終わるのを待った。言葉の深くに横たわる孝之の心の音を漏らさないように、慎重に、私の心の内に響かせるように、受話器から聞こえる声に耳を澄ました。 そうやって孝之の心に突き刺さった氷柱の大きさを、なんとか知ろうと必死になっていた。(つづく)
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