カテゴリ:緑のおっさん
八月の空は青く、マンションの向こうに見えている入道雲は眩しいほどに白い。公園の木々は鬱蒼と生い茂り、濃い影をアスファルトの道路に落とす。
人も車もほとんど通らない坂の途中。耳をつんざくような無数の蝉の鳴き声は、まるで意識をはるかかなたへ沈めてしまう呪文。気が遠くなりそうだ。 バスはまだ来ない。 早く来てくれないと、泣いてしまいそうだった。 昨日まで部活の後、いつも一緒に帰っていた翔太は、今日からは彼女と一緒に、わざわざ彼女の家の方を回って帰る。好きな子がいるなんて一言も言ってなかったのに。急に彼女ができたなんて。ズルイ。 翔太とは家が近所で幼稚園からずっと一緒だった。二人とも中学で吹奏楽部に入って、県内ではトップクラスのブラスバンド部がある高校を、一緒に目指して受験して、入学して、入部して、今日まで毎日楽しくやってきたのに。 バカだなぁ、私。そんな日々がずっと続くと思っていた。そりゃあ、付き合っていたわけでもないし、お互い好きだとか意識していたわけでもない。 でも、何て言うか、私たちは特別な関係だった。相手の気質とか好みとかよく理解し合っていて、二人だけの共通の思い出とかも多くて、他の人が簡単には割り込めないような特別な関係。少なくとも私はそう思っていた。 けれど翔太の彼女は、そんな私たちの間にするりと入り込み、いとも簡単に翔太を連れ去った。 一人でバスを待つ時間は、いつもよりずっと長く感じる。公園の蝉がこんなにやかましく鳴き立てていることにも、今日初めて気が付いた。 「なんや、半べそかいてるんか? さてはねえちゃん、失恋したか?」 「は?」 ふいに話しかけられて声のした方を見る。男の人、結構なおじさんの声だった。でも誰もいない。空耳? 注意深く耳を澄ましてみても、相変わらず蝉がシャーシャーとうるさいだけだった。待ち侘びるバスの近付く音すら聞こえない。 今のは幻聴? だとしたら私、熱中症かも。慌てて鞄の中からスポーツドリンクの入った水筒を取り出し、ゴクゴク飲んだ。 「はー」 冷たさが胸の奥まで浸み込んでいく。ため息とともに肩の力が抜けた。抜けるような空の青さが、かえって辛い。 「元気出せや。男はなんぼでもいるやろ。ねえちゃんさえ、選り好みせんかったら、速攻ゲットや」 また聞こえた。かなりハッキリと。いくら辺りを見回しても、私の他には人っ子一人いない。ぞわっと鳥肌が立った、その時だった。 「こっちや、こっち。とは言うものの、あんたには見えんだろうけどな」 かっかっかっ、とバス停のベンチの下から高笑いが聞こえてきた。慌ててベンチの下を覗き込むと、いた、おっさんが。それも身の丈二十センチくらいの、とても小さなおっさんが、上下緑色のジャージ姿で立っている。 今度は幻覚? だとしたら私、かなり重症な熱中症? やばくない? 鼓動が半端ない速さで、体の中から私を叩く。小さいおっさんは真顔で私を見ている。無数の蝉がその鳴き声に、自身の運命を託して大気を震わす。気が遠のいていきそうだった。 バスが来た。私は何が起きているのか理解できないまま、乗車口に駆け込んだ。崩れ込むように座席に座り、窓からもう一度、ベンチの下を確かめようとしたけれど、角度が悪くて覗くことはできなかった。 「ドアがぁ閉まりまーす」 バスが走り出す。引き返してもう一度確かめたいような、怖いような。何だったの? あれはいったい。 「あなた、大丈夫? 顔色悪いし、寒いの? 震えているみたいだけど」 通路を挟んだ席に座っているおばさんが、声をかけてくれた。 「あ、はい、大丈夫です。ありがとうございます」 それだけ言うのが精一杯だった。 翔太に彼女ができたのもショックだったし、連日の猛暑だし、きっと疲れているせいだ。そうそうゆうべ夜更かしして、寝不足ってのもある。そう自分に言い聞かせていたとき、何かが視界の隅で動いた。 それは平然と私の隣に座った、というか跳び乗った。髪の薄い、緑色のジャージを着た小さなおっさん。さっきベンチの下で見た、おっさんだった。 (続く) ※この作品はフィクションです。 登場人物や団体等、実在するものとは一切関係はありません。
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