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テーマ:洋楽(3395)
カテゴリ:70年代洋楽
御茶ノ水のジャニスにもしばらく行ってないし(←全然関係ないし…) その魂をけずるようなシャウトで、ロック史に永遠の名を刻んだジャニス・ジョプリン。その死から今年で37年になるが、彼女が今も女性ロックシンガーの頂点に立つ存在である事に異論を唱える者は少ないと思う。 ジャニスは'43年にテキサスで生まれた。子供の時から孤立しやすい人間だった彼女は、学校でも浮いた存在であり、高校時代には校内ドブス・コンテストの大賞に選ばれた事もあったという(そんなコンテスト開くなよ…)。 そんな彼女が音楽に出会ったのは17歳の時。やがて、平凡な人生を拒むべくサンフランシスコに向かったが、そこでもうまくいかず、いったんはテキサスに戻っている。 彼女に転機が訪れたのは'66年。友人からの誘いで再びサンフランシスコに赴き、ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーにヴォーカリストとして加入。アレサ・フランクリンやオーティス・レディングに心酔いしていたという彼女の資質は、ここで大きく開花する事になる。 '67年には例のモンタレー・ポップ・フェスティバルで圧倒的なパフォーマンスを披露し一気に名を上げるが、彼女と他のメンバーの実力に差がありすぎた事や、人間関係のゴタゴタなどで翌年にはバンドを抜ける。 その純粋さゆえか、彼女は粗暴で常に深酒をあおっていたという。もちろんドラッグも。 そんな生活では体に悪い、と友人から言われると彼女はこう答えたという。 『確かに他のシンガーほど長持ちはしないだろうね。でも、明日の心配をしているアンタたちをぶっ壊すくらいの力はあるよ』 その通りになった。'70年10月4日、ジャニス・ジョプリンは、録音中だったアルバムを完成させる事もなく、ヘロインの大量摂取のため死んだ。享年27歳。 ジミ・ヘンドリックスが同じ歳に、同じ原因でこの世を去った3週間後の事だった。 録音途中だったニューアルバムは、彼女の愛称から名前をとって「Pearl」と名付けられた。アルバムに収められたアカペラ・ナンバー「ベンツが欲しい」はリハーサル・テイクをそのまま使ったもの。「生きながらブルースに葬られ」は、彼女のボーカルをかぶせられる事なく、インストとして収録された。 この「Me And My Bobby McGee」は、彼女の死後に発表されたシングルで、'71年3月に二週連続全米1位を記録。一時期ジャニスの恋人でもあったクリス・クリストファーソンの作品で、ここでは彼女自身が生ギターを弾いている。 それまでの激しいシャウトとは違う抑揚の効いた歌が実に印象的。オデッタやレッドベリーなどのフォークも好んでいたという彼女の一面が色濃く出たものであり、ヒステリックな人間性の陰に潜む優しさ、繊細さが聴く程に沁みこんでくる。 誰よりも人を愛そうとし、だけどその純粋さゆえに寂しい女のまま神に召されたジャニス。 彼女の遺灰は、本人の遺言通りカリフォルニアの海へ撒かれた。 完成される事のなかったアルバム「Pearl」にはこの曲の他にも、「Move Over(ジャニスの祈り)」「Cry Baby」「My Baby」など、絶唱と呼ぶにふさわしい激しくも悲しい音楽がいっぱいに詰まっている。 「Me And My Bobby McGee」を聴くにはここをクリック! 「自由」って 「失うものは何も残ってない」ってこと 何も 何もなくなってしまう もし自由でなければ 彼がブルースを歌えば 私はごきげん ねえ 気分が良ければ それで十分 私には それで十分だった 私と 私のボビー・マギーには あの人は 私の恋人 私のオトコ 私は言った あの人を恋人と呼べるなら 命をかけて愛するわって お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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