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カテゴリ:邦楽
それは「マーティン・ディニーの『Firecracker』をシンセサイザーを使用したエレクトリック・チャンキー・ディスコとしてアレンジし、シングルを世界で400万枚売る」というものだった。 高橋と坂本はそれに賛同し、その場でグループ結成の話が持ち上がる。 イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の誕生である。 ヒントとなったのはクラフトワークとジョルジオ・モロダーだ。 音楽的視野が広く先見性にも長けていた細野は、反復するリズムの向こうに"新時代の到来"を感じとっていたのだろう。 強者(つわもの)ミュージシャン三人によってYMOは結成された。 だが、デビュー当初の彼らに注目していた人はごくわずかだったという。 強者といっても、当時の三人は一般的知名度が高いわけではなかったし、彼らのやろうとしている事は海のものとも山のものともつかないように思えたからだ。 '78年の9月に発売された『ニュー・ミュージック・マガジン』には、「機械が歌う明日(?)の歌、現代都会人の音楽を模索するイエロー・マジック・オーケストラ」という記事が掲載されている。 その記事を書いた北中正和氏は、原稿を提出する前に何度か取材を行っているが、"YMOの音楽をどう評価していいか分からないまま記事をまとめてしまった"と言っている。 のちにオリコン20位まで上がる1stアルバム(ただし米国盤)も、発売当初はほとんど売れなかった。 細野が頭の中で描いていたヴィジョンは、当時の日本ではそれほど進んでいたわけだ。 また、自身もYMOを一種の"実験的ユニット"と考えていたようで、固定メンバーで活動をするとは思っていなかったようだ。 当初のグループ名は「細野晴臣 イエロー・マジック・オーケストラ」だった。 ジャケットにもメンバーの顔は写っていない。また、初期の構想では横尾忠則もメンバーのひとりに入っていたという(入れてどうするつもりだったんだろう?)。 グループ名をそのままタイトルに冠した『Yellow Magic Orchestra』は、YMOの1stアルバムだ。 発表は'78年の11月。 最初からワールド・ワイドな活動を念頭においていたこともあり、アルバムは海外でも発売されることとなった。 ちなみに、レコード会社は当初この作品をフュージョン系の音楽として売り出そうとしていたらしい。 米盤ジャケット(上写真)のデザインを手掛けたのは、ウェザー・リポートの『Heavy Weather』でも知られるルー・ピーチだ。 テレビ・ゲームのSEから始まるこのアルバムは、"テクノ・ポップ"という言葉がふさわしい内容となっている。 もっとも、当時そのような概念はほとんど浸透していなかった。 日本で"テクノ・ポップ"という言葉を最初に使ったのは、音楽ライターの阿部譲だという(シンコー・ミュージック発刊『Techno Pop』より)。 言葉が世に出たのは'78年の8月。 クラフトワークの音楽を紹介する際に使った表現だった。 YMOの音楽はクラフトワークの影響を強く受けたものだったが、さらにディスコ的なキャッチーさと躍動感を強調した所が新しかった。 コンピューター演奏による無機質感を前面に出す一方で、メロディや従来的なコード感覚も大切にしていた(特に初期)。 それはまさに"テクノ・ポップ"であり、彼らの音楽が多くの人に受け入れられた最大の要因だと自分は考える。 また、機械を駆使した演奏ながら、同時に人間的なぬくもりも感じられるのも見逃せない。 それは、メンバーである三人がもともと肉体的なプレイヤーとしても一流だったということに起因するものだ。 細野作品であり、アルバムの最後を飾る「Mad Pierrot」は、自分がもっとも好きなYMOの曲のひとつだ。 同アルバムでよく知られているのは、マーティン・ディニーの「Firecracker」、坂本作曲による「東風」、高橋作曲の「中国女」あたりだろうが、本曲もクオリティ面では劣っていない。タイトルはゴダールの映画からとられた(『東風』『中国女』もそう)。 この曲が生まれてから、もう30年がたつ。 軽くてピコピコしたサウンドはいかにも"テクノポリス・トーキョー"だが、それでも古びた感じはあまりしない。 全体にみなぎるスピード感と、耳をとらえるメロディのせいだろう。 坂本によるピアノの音色も実に気持ちいい。 荒削りな部分は若干あるものの、基本的なサウンド・スタイルや音楽的焦点はこの時点で既に確立されている。 キッチュでカラフル、そしてポップ。 三人の天才がぶつかりあうスリル、"新しい音楽"が生まれる瞬間の輝きが、東洋風のキャッチーな旋律と合わさって鮮やかに記録されている。 細野がかねてから提唱していた"イエロー・マジック"とは、このことだったのだろうか。 ここにつまった勢いと華々しさは、次作での大ブレイクを予告しているかのようでもある。 たたみかけるような疾走感は、のちの名曲「Rydeen」と一本の線でつながっている。 '79年8月、YMOは初の海外公演(チューブスの前座)を行い、大絶賛を浴びた。 同年9月には2ndアルバム『Solid State Survivor』を発表。 ポール・マッカートニーやマイケル・ジャクソンをはじめとして、彼らの音楽が世界のミュージシャンに刺激を与えたことはご存知のとおり。 細野が思い描き、坂本、高橋ら(松武秀樹も)と共に具現化した"トーキョー発の電子音"は、日本が誇るべき音楽遺産のひとつだと思う。 「Mad Pierrot」を聴くにはここをクリック! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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