マイケル
毒舌家で知られる小生。久々にFFを切ってみよう。さて、最近まで小生はタルタルの中身の人のことを考えると、心からタルタルを愛でる事が出来ずにいた。きっとあんなに語尾を延ばしてても、現実では「『はい』は一回でいいんだよ! 何聞いてた!」とか怒ってるに違いない、とか。あんなに可愛らしくプルプルしてるのに、中身は「和田ベン」そっくりなんだ! 間違いない! とか。悪態をつくこと甚だしかったように思える。まあ、実際タルタルと同じ可愛さを人間が醸し出すことなど不可能に近いので、あながち間違っていたとは今でも思わない。では、何を釈明しようと言うのか?それは最近、このタルタルという珍奇な生き物を愛玩するようになったということだ。バカな……。自分でもそう思う。けれども、視界を下方に移動させることが多くなったかと思う。「またねー(*'-')ノン」と手を振られるだけで、「ほわーん」とその場に立ち尽くす。なんだろう。小生は遂にゲームの中はゲームと割り切ったのだろうか。それとも、タルタルという生物の存在を信じるようになったのだろうか。はたまた遂に病気が末期になったのだろうか。そこでふと類似した事例を思い出した。皆様はシュレック2という作品をしっているだろうか。あの2には愛らしいネコが出ていた。そう、ネコ好きであるやなしや関係なく誰しもがウットリする程の愛らしさを満面に含んだ長靴を履いたネコである。かーわいー(……)ごほん。もう名前は忘れてしまったが(アレックス? とかだった気もする)小生は日本語吹き替えしかレンタルできなかったため、その声は俳優:竹中直人が担当していたと記憶している。竹中直人といえば、おっさん中のおっさんである。演技力うんぬんはこの際問題ではないのだ。思ってもみてほしい。魔法をかけられ可愛いネコになってしまった男。少女はその男に同情し、魔法を解く手伝いを約束する。いつしか旅の中で、少女はネコの姿の男に惹かれるようになる。もちろん、それによって男の真の姿への幽かな期待も、嫌が応でも高まってくる。なぜならこうした展開で魔法により姿を変えられるのは、古来より美男美女と相場が決まっているからだ。そして、遂に少女の助けを借り、ネコは人へと姿を戻す。薄煙の中確かに存在する人間のシルエット。近寄って抱きつこうとする少女。まさにその時一陣の軽風が薄煙を霧散させる。膝から崩れ落ちる少女。視線の先には優雅に佇む禿たおっさんこと竹中直人。これってどうですか? ダメっぽくないですか? 金返せっていうか、少女からしたら純情を返して、じゃないんですか? ボクがダメダメだから、こう言ってるんですか? 本当の愛ってこういうのじゃないんですか? 心にダムはあるんですか? ないんです!ごほん。しかし。しかしだ。小生は中身を熟知しつつも、そのネコに愛着・愛玩を覚えた。そう、どうやら中身の人よりキャラクターの可愛らしさが勝ったということらしい。もはや中身がどうであれ、可愛いものは可愛いで落ち着くことと相成ったようだ。いや「中身がどうであれ」ももしかすると誤りかもしれない。もはやネコを愛して瞬間から、その中身の竹中直人すらも愛する対象になっていたのかもしれぬ、ということをどうして否定できようか。自分のことは自分がよくわかる。そう言い切れぬ小生であるが故に、キャラだけ独立させ愛したのか、キャラの愛をそのまま中身にも分けて共に愛したのか、未だに定かではないが。それでも既にそういう判例はあったらしいことに気づいたのである。とにかく、そういう風な原理が働くからかどうかはわからないが(じゃあ、なんでシュレックのこと語ったんだよ……)小生はタルタルに愛玩を抱くようになった。一言断っておくと、この愛玩という言葉、時に淫猥な意味でも使われるが別に元来そういう言葉ではない。本来は「大切にする。可愛がる」の意味で使われるのだ。だから、冒頭で「愛玩」と称した際に、「うわ、こいつ変態だ……」と思った賢明な諸君。あなた方が決して間違っているとは言わないが、でもせめてその事実を内緒にして頂けると助かるというものである。お後がよろしいようで。タルタル(マイケル調で)