アルプスの少女。
全てを失い、深淵に浸るクララ。 心は腐泥に包まれ、意識は混濁の海に沈んでいた。 車椅子の肘掛は咽ぶ涙で赤黒く錆を纏い、 蠢くことを否定された部屋は埃に塗れている。 クララ。クララ。クルリララ。 無音の室内に一筋の軽風が凪いだ。 クララは人形のように動かない。 まるで身体全ての筋が弛緩して果てたかのように。 クララ。クララ。クルリララ。 もう一つ。風がクララの窪みやつれた頬を撫でる。 そしてまた静寂が室内を支配する。 大時計の鐘が十二時を知らせるまで、 またこの部屋は一切の音を否定するだろう。 クララがそう望むのだから、それも仕方のないこと。 しかし今日は思いもかけない珍客がクララの静寂を妨げた。 「ご機嫌麗しゅう」 腐食した蛙の亡骸を思わせるその塊は、 ひらりとクララの膝上に降り立つ。 刹那闇が戦慄いたように室内が暗澹と曇る。 蛙は言った。 「この脚の対価として、どこまで払えると思いますか」 クララの脚が―動かぬはずの脚が。 僅かに痙攣したように見えたのは気のせいだろうか。 迅雷の如き轟音に逆撫でられたような精神に終端は見えない。 全ては軋みも歪みもせぬこの脚のせい。貪汚に塗れた我が心。 クララの心は不慮の事故以来、監獄に繋がれた囚人が如く。 ただ無為なる悠久の流れのまま朽ち果てんを待ち侘びた。 蛙はもう一度凪ぐように呟いた。 「この枯竭した枝。その対価です」 瞑ったような漆黒の双眼には混沌が滲む。 一つ喉を震わせ、周囲の大気を吸引すると、 下顎の空気袋を破裂せんばかりに膨張させる。 二度。三度。規則正しく蛙の喉が鳴る。 まるでメトロノームのように、 蛙は無限に刻を刻むかのように鳴いた。 あなたはいつまで私を待たせるのですか、と。 確かに蛙の双眸がそう告げていた。 「ハイジを。ハイジをあげるわ」 栄輝を喪した者の掠れた嗄れではあったが、 蛙は眼窩から目玉を刳り抜かんばかりに押し出し、 そして意中の男から永遠の愛を誓われた端女のように 満足満面に口許を綻ばせ、笑うのだった。