ゲームの構造的限界を超える。ゲームを作る。
倉本さんのエントリで高岡理論の限界について書かれた内容のものがあって、色々と考えさせられた。・人間が行うあらゆる所行には、それが生まれたときに「構造的限界」が、いったん設定されるのかもしれない、とふと思った。(ここでいう、「構造的限界」は、厳密には「限界」ではなくて、その分野における大きな壁のようなもので、引き上げることが出来るものと規定する。上手く表現できる語彙がないので、ここではあえて「限界」というコトバを用いる。)・組織に属しているサラリーマンの仕事で言うと。平社員には平社員の、管理職には管理職の、構造的限界がある。(構造的限界、言い換えると「自由度」か。)社長の構造的限界は、平社員や管理職と比べて随分高いところにあるが、やっぱりそこには構造的限界がある。サラリーマンの、起業家の、宗教家の、芸術家の、学者の、スポーツ選手の、それぞれの分野でそれぞれの構造的限界がある。「超一流」といわれる人たちは、その構造的限界を突破し、引き上げることの出来る人のことだと思う。人間が行うあらゆる所行を「ゲーム」と呼ぶならば、「ゲームバランスを壊す人=超一流」ではないか。・イチローは、野球というスポーツのゲームバランスを壊しまくってる。ピッチャーゴロやセカンドゴロをヒットにしてしまうんだもの。マイケル・ジョーダンは、5人対5人というスポーツの中で、あっさり何人も置き去りにしてしまう。そういう、信じられないことをする超一流の人達を、僕たちはお金を払ってでも観たくなる。自分と同じ人間が、「構造的限界」を突破するところを目の当たりにし、希望をもらいたいのだ。・「超一流」の人たちは、自分が属する「ゲーム」で、構造的限界を引き上げようと努力する。自分一人の体と頭をとことんまで使ってみたり、瞑想してみたり、自分と違う分野の「超一流」とコラボレートしてみたり、とにかく発想を広げ、自分のカラダの中にある奥深いメカニズムを開発するすることで、構造的限界を引き上げようとするのだ。そして、構造的限界を突破し、そのレベルを引き上げたとき、「超一流の人だけのための」新しいルールが生まれる。・「超一流」と「一流」の間には、暗くて深い川がある。それは、圧倒的な差。佐川幸義という合気道家が、どんなに弟子を指導したとしても、弟子達はまったくその高みに近づけないそうだ。たまたま思いついた例を挙げたが、これは学問でも、芸術でも、スポーツでも、どんな分野でもそうだろう。何がそれほどまでの差を生むのかを考えると、ゲームのルールを作り替える存在と、ゲームのルールの中で自分を表現する段階にとどまっている存在とでは、目指す地点があまりにも違うからだと思う。・「超一流」の人がゲームバランスを壊して、ルールを作って、ってことをさらに突き詰めていくと、「ゲームそのものを作り出すレベル」に達する。「歴史上の偉人」という段階だ。ここに辿り着くには、既知の方法論を積み上げるだけでは、物理的・時間的に間に合わない。かけ算・乗算で成長しないと、高みに達する前に寿命が尽きてしまう。「歴史的偉人」は、その道を突き詰めることのできる「狂気」を持っていたはずだ。自分でガンガン新しいゲームを作っては壊すことを繰り返す中で、誰にも真似できない境地へ上っていく。・ゆる体操に話を戻すと、そもそも「高岡理論」は、高岡氏が作った「ゲーム」だ。そこには「カラダのことに主軸をおいて設計した」という先天的な構造的限界が存在する。そのゲームを覚えたら、まずはゲーム自体を支配し壊し、作り替えなければ次に行けないと思う。守・破・離の「離」に達し、自分だけのゲームを作らなければ、構造的限界で頭打ちになってしまう。・この世にある「ゲーム」のなかで、「構造的限界」のレベルが初めから高いものには何があるだろう。やっぱり「芸術」かもしれないな。これも、「既存の人類の遺産=ルール」に絡め取られてしまう可能性はあるが、その他の「ゲーム」に比べて格段に自由度が高い気がする。・構造的限界を突破して、青天井の成長を目指すなら、「ゲームをやる側」から「ゲームを作る側」にならなくてはダメだ、とうすうすは感じていたが、今日改めてハッキリと悟った(という言葉を使うと偉そうだけどあえて使っちゃおう)。そのために、もっと「全てを疑い続ける」姿勢を前面に出しても良いかもしれない。・人生のあらゆる局面において、自分でゲームを作っていく。それができなきゃ、退屈で人間ダメになっちゃう時が、いつの日か来るような気がしてきた。