正義の強要と無自覚の自己特別性
さてと、何やら半年に一回くらい同じ事書いている気がするが・・・・ひとまずはギャンブルネタから・・・今日は会社帰りに久しぶりにサンマーをやった・・・そうしたら・・・麻雀においてはキャバ嬢に水道水を強要する漢と枕を並べてゾーン入り・・・目も当てられなかった・・・二人で僅か4時間程度で、-35Kづつ負けて一人が70K勝ち・・・・どうしようもなかったな・・・というか・・・いくらなんでもこんなワンサイドゲームになるとは・・・・信じがたい・・・しばらく競馬以外からは遠ざかった方がいいかもしれない・・・でもって、表題なんだけれども・・・・結構衝撃的なコメントを頂戴する事は多いのだが・・・・自覚がないということなんだろうかと思ってしまう。罵詈雑言系ではなかったので、私の考え方を記載するけれども・・・というか、繰り返しこういったことを記載するのは時間の浪費になるので、なんかあったらこれ見てくれみたいにしたい。昨日のコメントで・・・こんなコメントを貰った。結局N島さんは「泥沼氏の言う通りに買っていては駄目だ、自分でいろいろ考えて買わなければ当たりませんよ」と仰っているようですね。 泥沼氏がどう受け取っているか判りませんが、3番人気に打った◎以外は無印の3連単で100万馬券を当てて、すごすぎるとか信者とかマンセーとか言われても逆におちょくっているとしか思えませんが・・(今回はまだ◎の1着付けですが、今までのは◎の3着付けが多かったですから余計そう思えますよね) N島さんの馬券上手には素直に感服しますが、一々泥沼氏を引き合いに出すのは、おやめになった方がよろしいのではないかと思います。泥沼氏の会員の中にも不愉快に感じている方がいらっしゃると思いますし、贔屓の引き倒しで泥沼氏に迷惑を掛けてしまっているのではありませんか?でまずなんだが・・・・>結局N島さんは「泥沼氏の言う通りに買っていては駄目だ、自分でいろいろ考えて買わなけ>れば当たりませんよ」と仰っているようですね。解釈は自由なのではないかと思うので・・・そう解釈したならそれでいいのではないかと思える。>逆におちょくっているとしか思えませんが・・これもそう解釈したのであれば、受け取り方の選択は私がするものではなく、自由であると思う。>一々泥沼氏を引き合いに出すのは、おやめになった方がよろしいのではないかと思います。泥沼氏の会員の中にも不愉快に感じている方がいらっしゃると思いますし、贔屓の引き倒しで泥沼氏に迷惑を掛けてしまっているのではありませんか?で、ここなんだが・・・・これが一番引っ掛かるのだけれども・・・止めた方が良いと言う言葉を記載するのも自由であるし、そう解釈するのも自由である。私はその自由を認めるし、発言も認める。逆にいえば、私がどうしようと私の影響下にある場においては自由なんじゃないかと思うのだが・・・・私の行動を制限しようとするのはおかしいだろうと。不愉快に感じている人がいるとしたら・・・それは私が行動を変えなければならないことなのだろうか?このブログのアドレスは7年も前に私が取得し、ずっと個人の主観を発する場として存在してきたのだが・・・先にあった私の発信内容が不愉快に感じるからそちらが変化すべきだという言葉は非常に傲慢な話ではないだろうか。まるで直進していたら家があって邪魔だから立退けと言っているようにも聞こえる。私は無理矢理更新した内容をメールで送りつけたり強要して見せているわけではない。不愉快なのであれば見ないという選択肢が読み手にあるはずなのだ。自分は変わる気はないが、相手に変われと言う。確かに自分は自分にとって特別である。ただ、誰かにとって自分は特別ではない。先日も不謹慎狩りで記載したけれども・・・・自分が正しいと思う事を信じて、行動するもよし、発言するもよし、勧誘するもよし。けれどもそれを強要したり、押し付けたりするのは違うだろうと。自分の選択の自由は認めさせておいて、他者の自由は認めないというのは、非常に身勝手で傲慢な話だと私は思うのだ。無論、私が思うだけで他の人もそう思えとは言わない。ただ、この場は私が先に存在し、私が管理する場である以上、私の意思が優先され、私が発信しようと思った内容が優先されると思うのだ。その私の意思を変えさせるというのはおかしい事ではないかと思うのだが・・・どうだろうか。例えばA日新聞に内容が気に食わないから変えろと投稿したりして・・・どうなるだろうか?A日新聞はきっと違う新聞を見てくださいと言うと思うのだが・・・・それと同様ではないかと思うのだ。私は人にやらされることが大嫌いで、かなりの天の邪鬼である。強要には抗いたくて仕方がなくなる。それに・・・迷惑とか失礼とか具体性がない言葉も・・・・それは発信者の主観であって、逆に私の主観からすれば正義のおしつけは失礼極まりない事ではないかと思うのだが・・・そうなると互いの正義がぶつかり永遠に平行線だ。答えは最初から決まっている。私はそう思う、私はそう思わない。それを言い続けて意味があるだろうか。私が正義の主張を行うのであれば、自分のことは棚に上げ、何故アフリカ難民を今すぐ救わないのですか?早く救ってくださいと詰め寄って・・・どう感じるか。想像してみてほしいのだ。余計なお世話だとか自分の勝手じゃないかとか反発を覚えないだろうか。他人を変えさせるよりも自分が変わった方がはるかに早いし、現実的だ。何故私の信じる正義を信じないのですかと言っても、争いにしかならないと思うのだが。自分の影響下にないところに自分の意思を反映させることはできないし、それをしようとすることは全く無関係な他者へ、権力を持たぬ者による言論統制になる。荒唐無稽な話だと思うのだ。その典型的な言葉が「すべき」だ。これぞ究極の正義の押し付けだと個人的には思うのだ。逆に私の視点から言えば・・・読者はすべて私を賞賛すべきだ。ということになる。おかしいとは思わないだろうか?思って当然だ、それはおかしいと私自身が思う。だが、そのおかしいことを記載する自分はおかしくはないのだろうか。特別だから。誰にとって?自分にとってだ。自分が特別であるのは自分だけであったり、それが自分の正義でしかないと言う自覚がないってことなのだろうか。私はいろいろ自覚はある。だから私は人様のところで決して、自己主張はしない。それは押し付けになるし、不毛だからだ。こうすべきだ、にたいしてそうすべきじゃない。答えが固定化されたらどこまでいっても平行線。意味がないのだ。最終的にはそこを管理する権限を持つ者が正しくなる。だから、自分の管理下外で主張はしない。争いになるだけだし、最終的には相手の意思の方が優先されるから。そもそもブログってのは個人が、思った事を発信する場だと思うのだが・・・その発信内容に制限を加えるのは最早個人ブログではなくなると思うのだ。解釈や発言、受け止め方・・・他者のすべての自由を認める。だから私の自由を否定することを止めてほしいと思うのだ。まあ、罵詈雑言でなければ反論は受けつけ公開するので下記メールアドレスまでどうぞ。hnwbt@yahoo.co.jpコメント欄では書ききれないでしょうし。私が思ったことや感じたこと、私の解釈を記載することは否定できないと思うのだけれども・・・何か間違った事は記載しているだろうか。自由であるを突きつめれば面倒なコメント全部消すとか、そうですかで受け流すとか、嫌ですとかお断りしますと一刀両断にするとかいろいろ可能だとは思うのだが・・・いずれにせよこの場における結果は見えていると思うのだよな。まあ、貰ったコメントで感じたことを記載したが・・・・言いたいことは結局のところ自分の自由(選択・正義)を主張するなら他人の自由(選択・正義)を否定するなと言うことだろうな・・・私は強制される事が大嫌いなのだ。