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カテゴリ:特撮映画
偉大なる「ガメラ 大怪獣空中決戦」
金子修介監督の「ガメラ 大怪獣空中決戦(1995)」は、My favorite movie である。それから11年目、ガメラの新作がつくられた。しかし、「小さき勇者たち~ガメラ~(2006)」のタイトルを見たとき、早くもダメかもしれないと悪い予感がした。 「小さき勇者たち」? 怪獣映画と子供の危険な関係 「ガメラ 大怪獣空中決戦」のタイトルは、「ガメラ」を見ても、「大怪獣空中決戦」見ても、おお、これは大怪獣ガメラを中心に据えた映画だと、みんながわかる。 一方の「小さき勇者たち~ガメラ~」は、「小さき勇者たち」と「ガメラ」と、どちらがメインタイトルなのか悩む。 もし、これが「たち」ぬきの「小さき勇者」であったのならば、当然メイン・キャラクターであるガメラのことを指すでしょう。どでかい敵怪獣に立ち向かう、怪獣としては小ぶりのガメラという設定が浮かぶ(「ゴジラ モスラ キング・ギドラ 大怪獣総攻撃(2001)」のゴジラ対バラゴンのイメージだね)。それならば、特撮怪獣映画として期待がもてたかもしれない。 しかし、「たち」である。ガメラとほかのだれか(何か)の組み合わせで「たち」と呼ぶのか、もしくガメラ以外の複数の「だれかたち」であるかもしれない。いすれにしても、ガメラをもちだしながら、そのほかの何かを足している印象だった。 さらに「小さき」が気になっちゃいました。この映画で「小さき」と言ったら、子供を示す確立が高い。怪獣映画と子供の組み合わせは、あまりうれしくない。なぜなら、かつて、日本には、怪獣映画をお子様向け映画として、安易に子供を登場させることで作品の質を落とし、当の子供からも「チャチい」といわれた歴史があるからだ。 不幸なことに、タイトルから得た予感は、裏切られることがなかった。 怪獣映画を、子どもの成長物語にしないでほしかった。成長物語があってもいいのだけれど、メインは怪獣にしてくださいよ。もしかして、愛とか友情とか勇気とか、そういう子供の姿を前面に押し出せば、感動的で高尚な「いいお話」になると考えているのではないですかぁ。言ってみれば、まずいラーメンを「栄養価が高い、ヘルシー」などのポイントで売るようなものだ。ラーメンは、例え脂ギトギトでも、本来の濃厚なうまさで勝負してください。怪獣映画のスペクタクルとか、ドラマ性を否定されたような気がしてしまいます。 子供の成長物語といえば「スタンド・バイ・ミー」がある。登場人物は、自分の中にどうしようもない弱さを抱えて、それと対峙するために死体探しの旅に出る。映画の中には切実感があった。 子どもを主役にした映画といえば「小さな恋のメロディ」がある。11歳の男の子と女の子が真剣に恋に陥ったらどうなるかというお話。大人に媚びない子どもの世界がありました。 インタビューに答えて「子どもって大人よりも、もっと高潔な生き物なんで」と田崎監督は発言してます。そこに異論はございません。でも、高潔な生き物であることに頼りすぎてはいなかったか。なんで子どもたちが、次々とリレーしてガメラのもとに石を運ぶのか、全然わからない。子どもは高潔、純粋なので、みんなガメラの危機とガメラには石が必要なことをテレパシーかなんかで察したのでしょうか。また、ガメラを運び去ろうとする大人の前に大勢の子どもたちが立ちふさがるだが、いつの間にそんなネットワークができたのだろうか。 子どもたちの健気さは、見る者の涙腺を刺激する。だけれども、そういう場面をつなげればいい映画になるというわけではないでしょう。何か、納得できるものを見せなければ、感動はない。 田崎監督は、ピーター・ジャクソン版「キング・コング」(2005)がお好きなようで、「主人公とキング・コングの関係性が非常に深い。愛の物語だったりするんで、ああいう形でしか今の時代はあり得ないんじゃないか」と言っておられる。今回のコングは、長時間ながら飽きずに見られた。しかし、コングと人間の女性が心を通わせるところは嫌いだった。ありえないなどと現実的な判断を下しているわけではない。オリジナルのモンスターとしての存在感を漂わせるコングが好きなのだ。 子供の視点より、観客の視点を もうひとつ、田崎監督は「子供たちの目から見た怪獣騒動」との設定にこだわったとのこと。彼らが知り得ない情報は、そぎおとしたと述べておられる。そう伺って、映画での説明不足が意図的だったとわかった。監督としてのオリジナリティが感じられる。 ですが、遠くない過去にガメラやギャオスが存在していて、そこへ当たり前のように新怪獣ジータスまで出てきちゃったら(誰がなんでジータスって名付けたんだ!)、観客としては、この世界観はどうなってるのと戸惑いますよ。少なくとも、ガメラやギャオスが20年前にいたなら、背景についてわかることがあってもいいでしょう。 突発的なできごとがおこり、わけがわからん状況で行動する子供を描きたいのであれば、ギャオスなど過去のできごとはない方がいい。正体不明のジータス出現、トトの正体は子供の味方ガメラだった、ガメラは子供のために小さな体で果敢にも怪獣と闘う、でお話になるじゃないですか。 細かい設定を考えるのがメンドーだったのでしょうか、どんなに考えてもリアリティーに欠けると思ったのでしょうか。 手抜きに見えますよ。 特撮場面の迫力とは 怪獣映画は、特撮場面が命です。 「怪獣が横に動くのは、やり尽くされたし、飽きた。縦に動かしてみたい」との発言に見られように、田崎監督は意欲的に画面作りに取り組んだようだ。 例えば、ジータスが橋から海(河口)に落下する場面がある。ここで巨大な水柱が立つ。しかし、それでいいだろうか。水泳の高飛び込みをしてるんじゃないんだから、ジータスのような重量だったら、大波が起こって川の両岸を襲うはずだ。民家を飲み込む水の勢いまで描く芸の細かさがあれば、監督の意図した縦の動きが、もっと生かされた考えますが。 「ガメラ 大怪獣空中決戦」は、もし、怪獣が本当に出現したらとの設定によるリアル指向のシミュレーション映画だった。あくまでも中心はガメラ、ギャオスの怪獣たちである。多分、金子監督は、子供の頃にゴジラの新作を見て、特撮映画を通して、映画の凄味を味わった世代だろうと思う。その体験が、平成ガメラシリーズの原動力だと想像する。 いい特撮怪獣映画は、この退屈な日常を破壊する夢を見せてくれる。 引用・参考文献 「映画秘宝 2006年6月号 VIP INTERVIEW 田崎竜太監督」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 27, 2006 07:37:20 PM
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