個性って
みんな持ってますよね。1人1人違っていますよね。でも学校という枠組みの中ではあまり歓迎されない個性ってありますね。管理するのに都合がいいというか、先生の意のままに動いてくれる子は認められる。そうではない子の個性は認められないばかりか、排除されることすらあります。ある一定の幅があって、その幅に入りきらない個性は歓迎されないことが多いですね。個人的に見ると1人1人とってもおもしろい個性を持っているのに、ある一定の枠に入れようとされてしまう。それがお相手に損失や迷惑を与えるような個性なら、そうされることもしょうがないんでしょうけど、そうじゃない個性も「治そう」とされる。そうしないと管理し辛いですものね。管理出来ないと学校の運営上困りますものね。自分自身のことを振り返ってみると、私はあまり自分を前に出して表現するということは、得意ではありませんでした。そして家の子どもたちもその傾向があります。でもそれは、今の学校ではマイナスとされる個性なんですよね。小学校の時は「もっと発表しましょう」とか「積極的になりましょう」とかよく通知表に書かれていたように思います。まるで治さないといけない悪いことのように。。。でもそれとは逆に「小さな親切運動」(今でもあるのかしら?)なんて活動が結構盛んな学校だって「人が見てないようなところで人の役に立つような人が親切な人」なんてよく言われていましたっけ。そして「こんな親切な人がいました」と皆の前で表彰されたりしてね。でもそれもな~本当の善意なのかな?表彰されたいがためのパフォーマンスじゃないのかなあ?だってそうしてる子たちって明らかに普段から目立ってる子ばかりだったしね。なんてひねくれたことを考えている子どもでした(笑)そうやって中学生位まではずっと「積極性が身につけば」と言われ続けていたように思います。さすがに高校生になってからは、そんなことは言われなかったですけどね。自分に自信がなかったのかな?それともこれは、生まれつきのものかしらね。大学4年の卒論の発表会の時、担当の教授が「普段ゼミで自分の意見をそんなにバンバン言わないけど発表は自分の率直な考えが出ていてとてもよかった」(自慢ではありませんよ)と評してくれたので、それはすごく印象に残っています。余程嬉しかったのでしょうね~今自分自身の子ども時代を振り返ってですが、せめて学校の中では(いや子どもの世界を大きくしめる学校の中だからこそ)発展途上の子どもをもっとおもしろがってほしかったなあと思います。私が子どもの頃と今では、状況も違ってきているかもしれませんけどね。今の学校「個性を伸ばす」と言いながら、それよりも「コミュニケーションを上手にとれる」ことばかりを、前面に押し出しているように思えてなりません。たとえそこに中味がなくても(中味が何かも時代とともに変わるとは思いますが)、表面上だけでも皆とそつなくコミュニケーションをとれる人が得するのが、今の学校なのかな?それともそれは、ずっと昔からそうであったのかしらね~これは、私の穿った見方かもしれませんけどね。。。みんな違って当たり前なのに、ある一定の枠にはめようとされるから、そういうことが潜在意識の中で積り積もって、学校に行けなくなるってこともあるんじゃないかしらね。もちろんそればかりが原因ではないとは思いますが。1人1人の子どもの持つ個性やおもしろいところ、どれだけの大人が楽しんで温かい目で見てくれるかによってよくも悪くもなりますものね~そんな余裕がない社会になってるのかな?せめて家の中だけでも、そんな子どもをおもしろがって、見れたらいいなあと思います。でもそうだからと言って、すぐに「学校へ行かない」という選択が出来るかと言うとまだ自信がありません。もちろんそれを決めるのは子どもなのですけどね。。。子どもにとって、今の学校にかわる何か。それを見つけることってすごく難しいなあって日々感じています。長々と書いてしまいました。読んでいただいてありがとうございます。